税金の歴史

最終更新日:平成24年4月26日

税金とは

税金の歴史 国や地方公共団体(都道府県や市町村)は、わたくしたちの社会を維持し高めるために、いろいろな仕事をしています。社会福祉の増進、教育の振興、道路の整備などもその一例で、そのためには多額の費用が必要となります。そこで、わたくしたちが共同して社会生活をしていくために必要な費用の一部を、その能力に応じて負担していただこうというのが、税金の考え方であり、憲法でも義務づけられています。

税金の歴史

わが国の税金のはじまりは、大和時代の氏族国家に見られた「みつぎ」であるといわれています。大化の改新後は、唐の租庸調をまねた税金制度が採用されました。租は稲のことで田一反歩(約10a)につき2束2把。庸は毎年10日間の歳役(労働)にかえて、成年男子一人につき布2丈6尺(約8m)。調は繊維製品や海産物、鉱物など各地方の特産物。以上のものをそれぞれ提出することが定められました。
 平安時代には、荘園という私有地を持つ貴族や寺社が出現し、非課税意の権利を与えられ朝廷に税を納めずにすみました。しかし荘園内で働く農民は地主に年貢を納めました。
 鎌倉時代には、幕府は荘園の中に地頭という土地管理の役人を派遣し、厳しく年貢を取りたてました。農民は地主と役人から取りたてられ、二重の納税に苦しめられました。江戸時代の納税も年貢とよばれ、米で納めることを原則としていました。四公六民、五公五民といって、収穫高の40~50%の高い年貢米を納めました。
明治維新となり、わが国の税制は転換期を迎え、それまでの年貢米から金納制に変わりました。そして、国家に納めるすべての税金が国や社会のために使われるようになりました。明治初期には土地に対する地租が大きな役割を占めていましたが、同20年に所得税が新設され所得税中心の税制に移行しました。昭和15年には、会社に対する法人税も設けられました。
 昭和20年の太平洋戦争終了後、税制はさらに近代化しました。その特色は申告納税制度の採用と地方税の充実です。申告納税制度は、各人が自分で税金を計算し、申告して納めるもの。地方税は、地方行政を円滑に行うための財源となり、地域社会づくりに使われます。地方税を納めることは、わたくしたち一人ひとりが政治に参加することであり、地域発展につながります。  
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