里見氏がいなくなったあと。
代官中村弥右衛門
里見氏がいなくなった安房国はどうなったのでしょうか。しばらくは内藤政長が管理しましたが、里見がいなくなった後始末と安房国内の石高(こくだか)の調査をやり直すことを任されて安房にやってきたのが、代官の中村弥右衛門尉吉繁(やえもんのじょうよししげ)。その補佐をした手代(てだい)の熊沢三郎左衛門忠勝(ただかつ)が引き続き仕事をして、1642年の12月にほぼ旗本(はたもと)と大名へ領地の引渡しを終えるまで、安房国の代官を勤めていました。
中村弥右衛門の寺社領安堵の証文
(館山市金乗院蔵)
代官の弥右衛門は、里見氏から所領を寄進されていた寺社のうち、九十八か所の寺社にほぼそのまま所領を保障した。これは山本村の金乗院宛のもの。


新しい安房の国をつくるひとたち。
安房の新支配者たち
1620年、まず西郷正員(さいごうまさかず)に長狭郡・朝夷郡で1万石が与えられました。1622年には内藤清政(きよまさ)が3万石で勝山藩(かつやまはん・鋸南町)をおこしています。また、屋代(やしろ)氏は北条村(ほうじょうむら・館山市)に陣屋(じんや)を設けて北条藩をおこしています。旗本の小浜守隆(もりたか)、石川政次(いしかわまさつぐ)などの旗本に次々と所領が与えられて、1642年には、ほぼ安房国の土地の配分は完了しました。幕府が直接管理する土地は2200石ほど、安房国内に陣屋のある大名が2家、安房以外に陣屋か城をもつ大名が二家、そして21人の旗本たちの所領になったのでした。
三枝守昌の墓(三芳村智蔵寺)
寛永十五年(一六三八)に安房で大名になった三枝守昌の墓。所領だった山名の智蔵寺にある。


残された家臣達はどうしたのでしょう。
再仕官する家臣
主人を失った里見家の家臣(かしん)たちは、どうしたのでしょう。まず、里見家の浪人(ろうにん)から館山城を受け取りにきた内藤政長に仕えたものがいます。その数は7人だったといいます。勝浦城主だった正木頼忠の子・康長(やすなが)の場合は、家康の側室お万の方との関係で、将軍秀忠(ひでただ)に仕えることができました。旗本として御書院番(ごいんしょばん)を勤めました。決して多くはないつてをたよって、武士として生き残る道をさがした人々は大勢いたことでしょう。
『夏目日記』
(館山市立博物館所蔵)
『管窺武鑑』という名で知られている。夏目定房が書いた家の伝記。定房の母の先夫が里見氏家臣の岡本元重であったため、岡本氏に関する記述がある。
里見家没落後、元重の父頼元は倉吉へ供をしたが、三年後に国へ帰され、その後、元重とともに上総潤井戸藩に再仕官したとある。

正木頼忠木像
(和田町正文寺蔵)
勝浦城主正木時忠の子で、北条氏のもとへ人質にでていた。その間に生まれたのが家康の側室になったお万である。天文の内乱で義頼に組し、家康からの出仕要求も固辞して里見家に残った。正文寺が菩提寺。


農業に帰るひとたちもいました。
帰農する家臣
江戸時代の安房国内の村には、里見氏の旧家臣だったと伝えている有力農民がたくさんいて、そのなかには名主(なぬし)や組頭(くみがしら)などの村役人を勤めるものも多くありました。今も安房地方には、里見氏から与えられた古文書(こもんじょ)を伝えている家がたくさんあります。船形村(ふなかたむら・館山市)で代々名主を勤めた正木家(まさきけ)、沼村(ぬまむら・館山市)の有力農民で幕末に名主を勤めたこともある川名家(かわなけ)など。家臣(かしん)のなかにはもともと百姓だったものも多くいました。里見氏がいなくなると、多くは農業をするようになったのです。
船形村正木家の墓所
(館山市船形)
船形村の世襲名主になった正木家の墓所。内房正木氏の一族と思われる。

正木様(館山市稲)
里見氏の初期の居城稲村城のふもとに住む正木一族が祀る先祖。正木源七郎義断が先祖だといわれている。

第六章 そして里見氏はいなくなった

その後の里見氏
里見氏以後の安房と家臣たち
里見氏顕彰と研究の歴史