里見家の子孫はいかに。 |
忠義の子供たち |
里見家が取りつぶしになったのは、跡継ぎがいないというのが、その理由でしたが、大久保家の夫人には女子二人が、別の女性には三人の男子がいたといわれています。夫人の娘は、ふたりとも旗本の妻になったといいます。男子のひとりは、1614年生まれの利輝(としてる)といい、31歳で没しました。三芳村延命寺(えんめいじ)に墓があります。その孫の義旭(よしあき)以降は代々が越前国鯖江藩(さばえはん・福井県鯖江市)主の間部(まなべ)氏に仕えました。他の子供たちも、全国に散らばりました。 |

里見利輝の墓(三芳村延命寺)
忠義の側室の子利輝の墓。この子孫は大名間部氏に仕官して武士になった。並びに利輝の曾孫里見義孝の墓もある。 |
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他にも忠義の子どもがいるらしい。 |
忠義の子孫伝承 |
これらの他にも、里見忠義(ただよし)が倉吉で産んだ子がいて、忠義が死んだのち海路(かいろ)土佐(とさ)国へ渡ったという話があります。高知県須崎市(すさきし)浦ノ内の戸波浦(へわうら)という集落を中心に11軒の里見(さとみ)姓の家があるということです。
館山市内(たてやましない)にも忠義の子孫の話が残されています。改易(かいえき)のとき高井村(たかいむら)の安西治郎右衛門の娘が忠義(ただよし)の子を妊娠していたというもので、名を春光(はるみつ)というそうです。子孫は代々正木村(まさきむら)に住んだといいます。春光の妻となった羽山喜右衛門(はやまきえもん)の孫娘と春光(はるみつ)の墓が今も残されています。 |

土佐里見氏の若宮様
(高知県須崎市)
土佐里見氏は倉吉からきたという言い伝えがある。若宮と呼ばれている初代の墓は倉吉を向いているという。 |
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里見の足跡をたどる子孫達。 |
先祖回顧(かいこ) |
忠義(ただよし)の子孫たちは、江戸時代も中期を過ぎた頃になると、里見家ゆかりの寺院や旧家臣(きゅうかしん)のもとや倉吉までおもむいて、先祖の足跡をたどるようになります。
間部(まなべ)家に仕えた、鯖江藩(さばえはん)の里見義孝(よしたか)や子の義徳(よしのり)が先祖の墓参り、また里見家の記録を収集しています。この鯖江(さばえ)の里見家では代々が先祖の墓参と調査を続けていたようです。 |

里見義豪の書状(三芳村高橋氏蔵)
鯖江の里見義豪たちが安房にいる旧家臣に延命寺への代参を指示している。文政十年(一八二七)。 |
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第六章 そして里見氏はいなくなった
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その後の里見氏 |
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里見氏以後の安房と家臣たち |
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里見氏顕彰と研究の歴史 |
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