家臣の様子がわかります。
忠義の家臣名簿「分限帳」
里見忠義の頃には「分限帳」(ぶげんちょう)あるいは「家中帳」とよばれるものが整備されたため、家臣団(かしんだん)の全体の様子を知ることができます。家臣団の構成をみると、「御一門衆」(ごいちもんしゅう)とよばれる里見忠義(ただよし)の一族と、里見家の直属の家臣とに分かれていることがわかります。
家老などの上級家臣(じょうきゅうかしん)は26人、奉行(ぶぎょう)などの役人や実戦部隊を指揮する武士など数百名の担当がかかれています。里見家の所領(しょりょう)は安房(あわ)国が9万石、鹿島(かしま)郡が3万石であわせて12万石ありました。

里見家の分限帳(館山市菊井氏蔵) 2枚セット
慶長十五年(一六一〇)の分限帳の写。里見家の家臣名簿であり、各家臣の所領と石高・役職などが記録されている。江戸時代に写されたものが何種類か伝わっている。

家老堀江頼忠木像
(館山市宮城頼忠寺蔵)
義康・忠義に仕えた家老。倉吉で忠義に先立って病没した。宮城は所領にしていた村で、そこの頼忠寺が菩提寺。曹洞宗。


偉い人達の構成です。
忠義の御一門
「御一門衆」(ごいちもんしゅう)は忠義(ただよし)の叔父で、8000石というとびぬけて大きな所領(しょりょう)をもつ正木大膳亮時茂(二代目)を筆頭に、里見家中では特別の家柄として存在していたようです。忠義の祖母である「御隠居様(ごいんきょさま・3000石)」、忠義の母と思われる「御前様(ごぜんさま・800石)」などの親族にも知行地(ちぎょうち)がありました。
正木頼房夫妻の墓
(鴨川市貝渚心巌寺)
小田喜正木家の重臣。二代目時茂(義康の弟)を補佐した。道俊と号した。妻は里見義弘の長女。二人とも慶長年間に没した。心巌寺は浄土宗。


どのようにして国を支配していたのでしょう。
里見家の安房の支配
寺社奉行(じしゃぶぎょう)・町奉行(まちぶぎょう)などが民政を担当し、台所奉行やその配下の勘定衆(かんじょうしゅう)などが財政担当として支配にかかわったと思われます。館山の城下町支配に関しては町奉行の担当、財政に関しては台所奉行、寺社奉行(じしゃぶぎょう)は寺社に関する仕事です。1613年には国内すべての村を対象に、役人が安房神社再建(あわじんじゃさいけん)の寄付を求めています。
館山新井浦の塩年貢支払いについての文書(館山市嶋田氏蔵)
館山城下の新井浦で塩が生産されていた。これは慶長十四年から十八年までの五年分の塩年貢の支払い内訳を示したもの。担当役人は足軽小頭の請西善右衛門。

長狭和泉山の山守の文書
(鴨川市和泉区蔵)
里見忠義が、地方奉行板倉牛洗斎に和泉の山守に扶持を与えることを伝えている。

第五章 天下人の時代

豊臣政権の登場
館山城下町の建設
徳川政権と里見氏
里見家家臣団と安房の支配
国替え、じつは改易
第六章へ……