上杉を倒す側に参戦。 |
上杉討伐(とうばつ) |
豊臣秀吉は1598年に亡くなりました。すると、徳川家康(とくがわいえやす)ら五大老(ごたいろう)と石田三成(いしだみつなり)ら五奉行(ごぶぎょう)たちの中で対立が始まります。1600年7月、家康は上杉氏(うえすぎし)を倒すために出陣しました。三成は家康方の伏見城(ふしみじょう)を攻撃します。里見義康(よしやす)は、徳川家との関係を選びました。徳川秀忠(ひでただ)の本隊に合流するため、下総小金(しもうさこがね・松戸市)に向かっています。そしてそのほかの大名とともに上杉勢との戦いに加わりました。 |

徳川秀忠から義康にあてた書状
(館山市立博物館所蔵)
羽柴秀忠(徳川秀忠)から安房侍従の里見義康に宛てた、端午の祝いの礼状。関が原合戦以前のもの。 |
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天下分け目の戦い。 |
関が原合戦 |
9月になると家康(いえやす)が石田三成(いしだみつなり)との直接対決のために上方(かみがた)へ向かいます。義康は上杉氏との戦いに残るよう命令され、宇都宮(うつのみや)に在陣しました。9月15日の関が原合戦で石田方が敗れて結果がみえると、10月1日、上杉勢(うえすぎぜい)は戦をやめて軍を引きました。義康(よしやす)のもとへも、家康(いえやす)から宇都宮での長い在陣の労をねぎらう書状が届いています。義康と親しかった増田長盛(ましたながもり)は領地を没収されて、高野山に追放されました。
翌年8月には常陸国鹿島で3万石の恩賞をもらい、12万石の里見義康(さとみよしやす)が関東最大の外様(とざま)大名となったのです。 |

鹿島郡での所領の充行状
(館山市立博物館蔵上野文書)
関ケ原の恩賞地鹿島郡で、家臣の上野七左衛門に所領を与えたもの。百姓が生活に困らないよう支配するようにと書いてある。 |
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義康の弟、里見のふるさとの領主に。 |
板鼻藩主里見忠重 |
関が原の戦で、義康の弟忠重(ただしげ)も1万石を与えられて大名になりました。しかも領地は先祖ゆかりの地上野国里見郷に隣接する板鼻(いたはな・群馬県安中市)でした。1603年2月、徳川家康が将軍になりました。その年義康が31歳で亡くなりました。
忠重は義康なきあと、10歳の梅鶴丸(うめつるまる・のちの忠義)の後見人となり、里見家で大きな権威をもっていましたが、1613年に突然の改易(かいえき)で表舞台から姿を消しました。 |

板鼻城跡(群馬県安中市)
この山の向うが里見氏の名字の地、里見郷。義康の弟忠重は、隣接する板鼻で大名になった。 |
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13才のお殿さま、忠義。 |
幼主忠義 |
義康なきあと、一族・重臣が中心になって、幼い梅鶴丸(うめつるまる・のちの忠義)を補佐していました。関東でただひとつ残った外様(とざま)の家を守っていくという大きな責任がありました。
13歳になった梅鶴丸(うめつるまる)は江戸に出て将軍秀忠(ひでただ)の御前(ごぜん)で元服(げんぷく)の式を行いました。徳川家の家臣として他の大名と同じように、大人のつきあいの世界へ13歳の少年は入っていったのです。 |

里見義康の墓(館山市慈恩院)
義康は慶長八年(一六〇三)に、三十一才の若さで没してしまった。義康の持仏堂がこの慈恩院になった。曹洞宗。 |
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実力者への接近。 |
大久保家との縁組 |
徳川家の側近で実力者の大久保忠隣(おおくぼただちか)に、里見家は近づきました。1611年に里見忠義(ただよし)は小田原城主・大久保忠隣(ただちか)の孫娘を妻にしました。このようにして、里見家の重臣(じゅうしん)たちも関東にただひとつ残った外様の家を守るために、徳川家の一族や幕府の重臣と婚姻(こんいん)を通じてつながり、そして人脈(じんみゃく)を広げていったのです。 |

徳川家康の書状(三芳村延命寺蔵)
九月九日の重陽の節句の祝いにたいする、家康から義康への礼状。 |
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実力者との関係から。 |
大久保家の不安 |
しかしその直後から、徳川家側近同士の本多正信(ほんだまさのぶ)・正純(まさずみ)父子と大久保忠隣(ただちか)の対立が表だってきました。大久保忠隣との縁組も、里見家にとって決して安泰(あんたい)とばかりはいえず、権力者(けんりょくしゃ)との関係は危険をともなうものでもあったのです。 |
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第五章 天下人の時代
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豊臣政権の登場 |
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館山城下町の建設 |
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徳川政権と里見氏 |
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里見家家臣団と安房の支配 |
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国替え、じつは改易 |
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第六章へ…… |
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