| 里見時代の前半を支えた人たち。 |
| 前期里見氏 |
安房里見氏の歴代は、義実(よしざね)から忠義(ただよし)まで十代と数えられています。そのうち義実(よしざね)・成義(しげよし)・義通(よしみち)・義豊(よしとよ)を前期里見氏(ぜんきさとみし)と呼んでいます。実尭(さねたか)の系統は後期里見氏です。
里見氏のお寺は、白浜町の杖珠院(じょうしゅいん)と三芳村の延命寺(えんめいじ)の二つですが、これがそれぞれ前期里見氏と後期里見氏のお寺なのです。また、前期里見氏(ぜんきさとみし)の歴史史料はほとんどないのです。 |
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前期里見氏の菩提寺杖珠院(白浜町)
義実にはじまり義豊までは、里見家の嫡流で家督が相続されていた。その義実・成義・義通・義豊を前期里見氏とよび、曹洞宗の杖珠院が菩提寺である。 |

後期里見氏の菩提寺延命寺(三芳村)
義通の弟実尭にはじまり、武力で家督を交代した義尭以降の義弘・義頼・義康・忠義と続くのは後期里見氏とよぶ。三芳村本織の曹洞宗延命寺が菩提寺。 |
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| 里見氏のはじまりのころ。 |
| 消された里見氏の実像 |
現在、二代目(にだいめ)といわれている里見成義(義成ともいわれています)はいなかったのではないかといわれています。里見義実(さとみよしざね)の子は成義(しげよし)ではなく、「義」をもらった義通(よしみち)と、「実」をもらった実尭(さねたか)の兄弟ではないかというのです。四代目といわれていた実尭についても、義豊(よしとよ)を後見したことはなく、当主にもなっていないことがはっきりしているので、もう歴代のなかには加えるべきではないようです。前期里見氏の歴史はだいぶ書きかえられているようなのです。
里見氏の歴代当主は全部で九人あるいは八人になるかもしれません。前期里見氏の歴史では不明な点が多く、復元する手立てとして残されているのが、文書や文献などの記録だけではなく、里見氏(さとみし)がいた時代の遺跡(いせき)なのです。いま注目されているのが戦国時代の城跡とその立地する環境です。 |
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| 本拠地となるお城。 |
| 白浜城と稲村城 |
前期里見氏の時代に、里見氏が本拠地にした城が白浜城(しらはまじょう・白浜町)と稲村城(いなむらじょう・館山市)です。 現在ある白浜城の跡(あと)は戦国時代前期(せんごくじだいぜんき)の古いつくりをしています。大規模な城だったことから白浜が重要な場所だったのだということが理解できます。
里見義実(さとみよしざね)は、足利成氏(あしかがしげうじ)が下総古河へ移り、上総(かずさ)に武田信長が入ってきた1456年には、すでに稲村城(いなむらじょう)に拠点を移していたようです。稲村城(いなむらじょう)は安房の国府(こくふ)に近く、国の役所を利用することも必要(ひつよう)だったのかもしれません。里見義実(さとみよしざね)が安房を取りまとめるにあたって、安西氏(あんざいし)や丸氏(まるし)は重要なパートナーになったことでしょう。 |

白浜城跡(白浜町)
里見氏が上杉勢力を追い出し、安房支配にのりだしたときの最初の城。海上交通路を押さえる拠点。曲輪を多用した戦国初期の城跡で、東西1kmにわたっている。ふもとの青根原神社が居館の推定地。 |
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| 館山の中心部にお城が。 |
| 稲村城跡 |
戦国時代(せんごくじだい)前期の古いつくりをしています。城山と呼ばれる中心部には、土塁(どるい)・堀切(ほりきり)など工夫があり、前期里見氏(ぜんきさとみし)の時代にだけ本拠地として使われ続けた城だということがわかります。
また狭い山頂を強引(ごういん)に広げていて、里見氏がなんとしてもここに拠点になる城がほしかったことをしめしています。
それは里見氏にとって、稲村城(いなむらじょう)が館山平野(たてやまへいや)をおさえて安房国全体を統治(とうち)するための城だったからなのです。 |
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稲村城跡(館山市)
前期里見氏が安房支配の拠点にした城。国府をみおろす政治・経済・交通などの中心地にある。堀切や土塁などの遺構がよく残っている。天文の内乱の舞台。 |

切通し遺構 |
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| 安房地方の殿様に。 |
| 安房の国主里見義通 |
1471年から1508年までの間30年の里見氏の歴史は現在のところまったく不明です。ただその間も里見義通(さとみよしみち)は古河公方(こがくぼう)を主人として仰ぎ続けていたのは変わらなかったようで、1508年には成氏の子政氏(まさうじ)に従っていました。
その頃には里見義通が、安房の国主(こくしゅ)といわれる立場になっていました。義通についても詳しいことはまだ明らかになっていませんが、安房国の統治者(とうちしゃ)へと成長していたということです。 |
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里見義通木像
(白浜町杖珠院蔵)
古河公方足利政氏の代官という権威を背景に、稲村城を拠点にして、国守として安房の支配をおこなった。 |
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| 八幡神社のことです。 |
| 鶴谷八幡宮の造営 |
1508年、義通(よしみち)は安房国北条郷(ほうじょうごう・館山市)の鶴谷八幡宮(つるがやはちまんぐう)を修復しました。この神社は安房国内の有力な神を集めてまつった総社(そうじゃ)で、もとは国府があった府中(三芳村)に国府八幡宮としてあったのが、鎌倉の鶴岡八幡宮を意識して海に面している北条郷に移されたものです。信仰をとおして里見氏が国内に存在感を示していることのあらわれだといいます。
鶴谷八幡宮を管理する那古寺(なごじ・館山市)の住職にも、里見家の人物が送り込まれているのです。那古寺二十一世住職の義秀(ぎしゅう)は義通の弟だといわれ、里見氏の当主とその弟がペアとなって、安房国を支配していたというのです。足利氏も関東全体の統治のためにこのような方法をとっていたようです。
そしてこの義通を軍事的(くんじてき)に支えたのが弟の実尭(さねたか)でした。実尭は内房の北部(ほくぶ)での戦により、その地を支配していきます。 |

鶴谷八幡宮(館山市八幡)
北条郷にある安房国の総社。もとは府中(三芳村)にあり、元社地にはいまも元八幡神社が祀られている。義弘や義康はここで元服し、里見氏は歴代が社殿の修理を行っている。 |

僧形八幡神像
(館山市那古寺蔵)
鶴谷八幡宮の別当として神社の管理をしていたのは那古寺だった。里見家当主の弟が住職になったこともある。里見氏は八幡宮をとおして安房の精神世界を統治した。かつての八幡の祭りは、那古寺からこの画像が出向かなければ始まらなかった。 |
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| 戦がまだまだ続きます。 |
| 足利家の分裂 |
ところで、上杉一族内部の抗争は、やはり十数年に及ぶ動乱となり、ようやく1505年に終わりました。ところが上杉氏が争乱を起こしているあいだに、伊豆の北条早雲(ほうじょうそううん)が勢力を伸ばしていました。伊豆(いず)国を奪い、小田原城(おだわらじょう・神奈川県小田原市)を取り、相模(さがみ)へ進出。すると、古河公方政氏の子、高基(たかもと)が北条早雲と結びついてしまい、1506年には公方家内部が分裂、権力闘争へと発展してしまったのです。さらに高基の弟義明(よしあき)も房総で独立してしまいます。
この分裂は関東各地に影響をもたらし、下総(しもうさ)の臼井(うすい)氏、常陸(ひたち)の小田(おだ)氏、そして安房の里見義通(さとみよしみち)は義明の勢力下に加わりました。その頃の足利義明(あしかがよしあき)を小弓公方(おゆみくぼう)といいました。 |
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| 長い戦いはなぜ、おわらないのでしょう。 |
| 足利家分裂の余波 |
公方家(くぼうけ)の分裂(ぶんれつ)には、当然里見氏(さとみし)も無関係ではいられなかったようです。
1512年に義通の子・義豊が、里見家の当主としての行為をしていましすが、この時義通(よしみち)は健在でした。義通も房州の軍を指揮したり、国主として那古寺(なごじ)の仕事をしています。つまりこの時期の里見家は、義通で一本化していなかったようなのです。政氏に従う義通に対して、若い義豊は高基を支持して張り合っていたのかもしれません。
しかしすぐには義豊が義通から国主の座をとるようなことはなかったようです。足利義明(あしかがよしあき)が房総に拠点(きょてん)を築くと、義通はその指示に従って、里見家当主として出陣(しゅつじん)していきました。 |
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| 力をつけた北条氏。 |
| 北条氏の江戸進出 |
北条氏は小田原(おだわら)から鎌倉への進出、そして1514年に三浦半島(みうらはんとう)の三浦氏を滅ぼして相模(さがみ)国を平定してしまうと、いよいよ次は武蔵(むさし)への進出をしようとしていました。
北条氏は古河公方・足利高基(あしかがたかもと)を支援していたようですが、小弓公方(おゆみくぼう)からも援軍の要請をうける関係でした。ところが1524年に扇谷(おうぎがやつ)上杉氏が武蔵支配の拠点にしていた江戸城(えどじょう)を北条早雲の後継者氏綱(うじつな)が攻略したことから、房総にも影響が生まれました。
江戸城(えどじょう)は東京湾(とうきょうわん)の海上交通や河川(かせん)交通を支配する拠点でもあったのです。それが北条氏の支配になることで、房総の勢力と利害がぶつかりあう存在になったわけです。
北条氏と上杉氏の対決は、古河公方−北条氏の連合と、小弓公方−上杉氏と房総勢力の連合との対決へと移っていくことになります。 |
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| 房総でも北条氏と対決。 |
| 北条氏との初対決 |
里見氏(さとみし)も、北条氏(ほうじょうし)と対決する気持ちになりました。1526年5月には、武田・里見の両軍が江戸城下の港まち品川(しながわ)に攻撃をしかけています。
この年の暮れに里見義豊(さとみよしとよ)が鎌倉を攻撃して鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)に乱入したといわれているのも、みな東京湾の支配を争うものでした。里見氏にとっては、これが東京湾(とうきょうわん)をめぐる北条氏(ほうじょうし)との長い戦いの始まりになったのです。 |
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里見義豊書状(館山市立博物館所蔵上野文書)
稲村城の義豊が叔父実尭と相談して、岡本城からの水軍の出撃準備をしている様子を、家臣の中里中務少輔に伝えている。 |
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| 里見氏のつながりは。 |
| 里見義豊の家督相続 |
義通(よしみち)の子・義豊(よしとよ)が正式に家督(かとく)を継いだのは、義通が隠居(いんきょ)したからだと考えられるようになってきています。1529年6月に、義通のときと同じように古河公方(こがくぼう)の代官という立場で義豊は鶴谷八幡宮(つるがやはちまんぐう)の修理を行なっています。この時には家督(かとく)を継いでいたということになります。大永(だいえい)年間の末から享禄(きょうろく)年間にかけて、義通(よしみち)は稲村城を出て白浜城へ移ってしまったようです。
1527年12月にも義豊(よしとよ)が当主(とうしゅ)としての文書を出しています。義豊のことではっきり分かっているのは、1533年におきた里見家(さとみけ)の内乱で、おじ・実尭(さねたか)を殺害して翌年に実尭の子・義尭(よしたか)に討たれたことです。没年が1534年4月というのは間違いありません。義豊に1507年生まれの子供がいた可能性もでてきているので、少なくとも50歳前後まで生きていたのでは、と考えられています。 |

里見義豊木像
(白浜町杖珠院蔵)
後期里見氏によって、まったく違ったイメージをつくりあげられてしまった。内乱を起こしたときには二十歳ではなく四十歳は越えていただろう。房州の賢使君(優れた国守)と評価されていた。 |
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| 義豊はカシコかった。 |
| 房州の賢使君(けんしくん) |
義豊と玉隠和尚(ぎょくいんおしょう)との交流をお話しします。「玉隠和尚」は、鎌倉にある臨済宗(りんざいしゅう)の明月院や建長寺(けんちょうじ)の住職をつとめた人物です。古河公方や関東管領などの命(めい)をうけて、戦いで荒廃(こうはい)した鎌倉の寺社の復興に活躍しているほか、鎌倉の文化を支えた能文家(のうぶんか)として知られる当時の一流文化人でした。
義豊はその玉隠和尚(おしょう)から「学問(がくもん)に励み、文武を兼ね備えた、この乱れ汚れた時代に稀(まれ)に見る貴公子(きこうし)だ」といわれているのです。鎌倉を代表する文化人・玉隠との交わりは、その玉隠を通じて当時の多くの教養人との交流に広がっていたことでしょう。戦国時代の武将とはいえ決して勇猛(ゆうもう)なばかりではないということです。 |
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第二章 房総里見氏の誕生
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里見氏以前の安房 |
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里見氏、戦国の安房に現れる |
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封印された里見氏の時代 |
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里見家の政権交替劇 |
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第三章へ…… |
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