関東の中心は鎌倉。
鎌倉府
足利尊氏は関東をまとめる役所として鎌倉府(かまくらふ)を設置しました。そのいちばんえらい人を鎌倉公方(かまくらくぼう)と呼び、これは代々足利氏。その補佐をする人を関東管領(かんとうかんれい)と呼び、代々上杉氏が歴任(れきにん)しました。
鎌倉公方足利氏満(あしかがうじみつ)のはからいで上野国(こうずけのくに)に帰ってきた新田一族。その後、1427年から35年頃になると、鎌倉公方足利持氏(もちうじ)の側近として里見刑部少輔(さとみきょうぶのしょう)という人物が現われてきます。


里見氏のはたらきぶりは。
鎌倉府の里見家基
刑部少輔(きょうぶのしょう)という呼び名は、里見義秀(さとみよしひで)以降の安房里見氏(あわさとみし)の先祖たちがよく使っていました。ここに出てくる刑部少輔(きょうぶのしょう)は安房里見氏(あわさとみし)の初代里見義実(さとみよしざね)の父にあたる里見家基(さとみいえもと)のことです。家基(いえもと)は今の福島県とのかかわりが強かったらしく、家基はその地方の武士の戦いぶりを鎌倉公方に報告する役割をもっていたようです。奉公衆(ほうこうしゅう)という鎌倉公方の側近として、南奥州での出来事に責任をもって仕える立場だったということがわかります。


関東以外でも活躍する里見氏。
奉公衆の里見氏
家基の少し前の時代に、今の茨城県高萩市(たかはぎし)には、そこの領主として里見基宗(さとみもとむね)がいました。基宗も鎌倉公方の家臣でした。この頃から常陸国(ひたちくに)で活動する里見氏がでてきました。家基が東北地方南部と関係を持つのは、自分自身が常陸(ひたち)に移り住んでいたことと関係があるのかもしれません。
手綱郷朝香神社(茨城県高萩市)
鎌倉公方足利氏の奉公衆になっていた里見基宗は、一四〇〇年頃に常陸国手綱(てづな)郷の地頭になっていた。朝香(あさか)神社の再建も行なっている。

小原城跡(茨城県友部町)
常陸国宍戸荘(ししどのしょう)に所領をもつ里見四郎という人物もいた。里見義実の祖父家兼は、宍戸荘内の小原(おはら)郷にいたとする系図もある。


大活躍、家基の死。
家基の死
里見家基は1439年に、時の鎌倉公方の足利持氏におともして自害したといわれています。ところがもうひとつ、二年後の結城合戦(ゆうきかっせん)でお城にとじこもり討ち死にしたという話もあります。このとき討ち死にしたのは里見修理亮(しゅりのすけ)と記録されていて、京都まで首が送られました。これが里見家基(いえもと)だともいわれています。
はたしてどちらが本物か結論はでていません。
足利持氏(もちうじ)の死によって鎌倉府(かまくらふ)による関東の支配(しはい)は事実上終わりをつげ、以後は鎌倉公方(かまくらくぼう)も関東管領(かんとうかんれい)も実体をなくしてしまいます。
その後、上下関係が乱れて一族というよりも、土地のつながりで自分を守るようになり、関東(かんとう)は戦国の時代へと入っていきます。房総里見氏(ぼうそうさとみし)もそういう世の中の流れのなかで、安房(あわ)へ登場してくることになるのです。

第一章 里見氏のルーツをたどる。

里見氏のふるさと紀行
新田一族のこと
鎌倉御家人里見氏
南北朝動乱のなかの里見氏
鎌倉府と里見氏
第二章へ……