房総里見氏のふるさとは上野国(こうずけのくに)。今の群馬県です。
上州里見郷
伊香保温泉で有名な榛名山(はるなさん)、その南麓にある榛名町(はるなまち)に「里見」という土地あります。群馬県群馬郡榛名町(はるなまち)の上里見(かみさとみ)・中里見(なかさとみ)・下里見(しもさとみ)という地域です。古くは、上野国碓氷郡里見郷(うしぐんさとみごう)と呼ばれていました。
この里見という地名が、全国に広がる里見氏の苗字の始まりです。
里見氏始まりの人物は、里見義俊(さとみよしとし)。平安時代の終わりから鎌倉時代はじめころの人物です。
房総里見氏の先祖たちは、長い間、この里見郷を拠点に活動していました。
里見一族が全国的に広がっていっても、この榛名町に頑張り続けた里見氏もいました。榛名町には、鎌倉時代から戦国時代にかけての里見氏ゆかりの史跡が今も、点在しています。


里見氏ゆかりの地、雰囲気たっぷり。
郷見神社
榛名町に入り、烏川(からすがわ)の下流「下里見」地区にある「郷見神社」。これも「さとみじんじゃ」と読みます。もとは諏訪社(すわしゃ)といって、諏訪明神をまつっていたところで、今でもこの場所は諏訪山と呼ばれています。この諏訪明神は、里見郷が戦国時代の終わり頃に武田氏の支配下になったときにまつられたものとされていますが、それ以前は祖、里見義俊が、源氏の氏神(うじがみ)として八幡神をまつったのがはじまりの場所で、里見氏ゆかりの神社ということになります。
郷見(さとみ)神社
里見氏の祖里見義俊が、源氏の氏神八幡神を祀ったのがこの神社のはじまり。


居城、館……戦国時代の様子が今でも。
里見城跡
郷見神社の境内から見える南側の小高い山が「里見城跡(さとみじょうせき)」です。この山は戦国時代の城跡(しろあと)で、永禄の頃(1558〜1570)に里見河内(さとみかわち)が城主だったと伝えられています。その頃は、上野国のこの一帯は上杉謙信(うえすぎけんしん)の勢力圏にあり、里見河内は箕輪(みのわ)城の長野業政(ながの・なりまさ)に属していました。長野氏は永禄9年(1566)に上野国に進攻した武田信玄(たけだしんげん)に滅ぼされてしまいますが、里見河内もその際に没落したといわれています。
この里見河内の存在は、鎌倉時代から戦国時代まで、里見郷に里見一族が住んでいたことを伝えています。

里見城跡
古城といわれ、里見義俊が築いた城と伝える。戦国時代にも里見氏が居城していた。


安房と里見を結ぶ接点が……。
光明寺
中里見にある「光明寺」(こうみょうじ)は鎌倉時代の里見義俊の供養のために建てられたとされる里見氏の菩提寺(ぼたいじ)。かつては義俊の墓もあったと伝えられています。東側には堀の内と呼ばれる土地が接していて、義俊が館を構えたところといわれています。このあたりには、今も「里見」を名乗る家が数軒あるそうです。
里見家歴世供養塔(光明寺)
光明寺の境内に、昭和十五年に安房延命寺や里見一族の人びとが建てた先祖の供養塔。戦国時代の茶人千利休も里見氏の一族で、ここで供養されている。

光明寺
里見山阿弥陀院光明寺という。里見義俊の供養のために建てられた寺。里見氏の菩提寺。天台宗。


あちこちに、「里見」モノが点在。
ゆかりの史跡
周辺の里見氏ゆかりの地を紹介しましよう。
中里見にある「雉郷(きじごう)城跡」は、戦国時代の城跡で、里見城や箕輪城の出城(でじろ)だったものです。
上里見には上里見城跡があり、南北朝時代の里見兵庫頭(さとみひょうごのかみ)の居城だったそうです。
上大島にはむかし安養寺(あんようじ)があって、ここは新田義重の法号、安養寺殿からとって名付けたとの説がある寺です。

小五郎橋(こごろうばし)
新田義貞が里見家の出身だという伝説がある。里見小五郎が養子にいき新田小太郎義貞になったという。小五郎ゆかりの地にちなんで、この橋もある。

第一章 里見氏のルーツをたどる。

里見氏のふるさと紀行
新田一族のこと
鎌倉御家人里見氏
南北朝動乱のなかの里見氏
鎌倉府と里見氏
第二章へ……