軍記物語の普及
 里見氏が安房からいなくなっても、伝承として多くの話が残されました。里見氏の墓や屋敷、城、合戦のあった場所、それらにまつわる話が目印になる木や井戸・山などに託されて語り継がれました。しかしそれは一部の人々の記憶に残るだけで、世話をする人のいなくなった里見氏の墓やゆかりの場所は荒れるようになり、そして時折その記憶がまたよみがえって、記録されたり整備されるという顕彰が繰り返されました。そうした里見氏の顕彰は子孫によるものと、ゆかりの寺社によるもの、そして旧家臣をはじめ里見氏に関心を寄せる人々によるものがありました。
 まず江戸時代の里見氏の顕彰は、軍記物語の著述からはじまりました。里見氏が安房へ現われてからの一七〇年におよぶ歴史を書き残したいという人が現われたのです。里見氏とは長年敵対した北条氏について書かれた『北条五代記』などでは、里見氏の扱いがあまりにも悪く事実に反しているというのが著述をはじめた理由でした。里見氏に祖父の代から三代にわたって仕えていたという元百人衆の山田遠江介が、『里見代々記』や『里見九代記』『里見軍記』などを寛永八年(一六三一)に著したというのが早いものです。
 ただ、直接里見家の改易を知っているはずの著者山田遠江が、改易の年を慶長十九年でなく翌年の元和元年に間違えているのは、不審なことでもあります。そうした年代の間違いや事実関係の間違いも多くあるのです。また里見氏を英雄豪傑として合戦での活躍を中心に記したため、初代の義実や北条氏を相手にもっとも多くの戦いを繰り広げた義尭・義弘が大きく扱われ、その一方で内乱をおこした義豊や義頼、家を滅ぼした忠義は扱いが小さかったり、過小評価されたりしています。それに本家をのっとるかたちになった義尭をとくに英雄として描き、相続の正当性を主張するために、義通や義豊については史実の大幅な書き替えが行なわれた可能性も指摘されています。これらの本の原形は里見義頼・義康の時期すでにつくられていたのではないかともいわれています。
 こうした軍記物語は、その後里見氏の旧家臣の家を中心に書き写されていったようで、そうした家にいくつかの写本や、それに影響をうけた系図などが伝えられ、安房地方に広がっていきました。またこれらをふまえて里見氏の別の軍談記もつくられるようになりました。宝暦十二年(一七六二)に安房神社の神官岡島成邦が著した『房総里見誌』は、歴史的な考証を加えたうえで、合戦で活躍する人々の描写もこまかく、読み物として楽しめるため、後の人に与えた影響の大きなものでした。

江戸時代の顕彰事業
 具体的な里見氏の顕彰事業としては、忠義の子孫である鯖江の里見氏が、先祖ゆかりの寺院や旧家臣訪ねて記録を集め交流を保つことがおこなわれていましたが、ゆかりの寺院でも里見氏との関係を寺の由緒としてつよく意識することがありました。延命寺で所蔵する延宝八年(一六八〇)制作の源氏里見系図は、里見氏の菩提寺であるにもかかわらず、寺に里見氏についての記録がないことを嘆いた住職の依頼で、平山勝岑という人が江戸で資料を集めて編纂したものです。
 また前期里見氏の菩提寺杖珠院でも、十世の住職で楽水軒という人が里見氏の顕彰を行なっています。この人は里見義通の兄義富の子孫で、白浜村の小戸(白浜町)に代々住んでいた家系の人です。住職になるとき家から里見の記録や系図を寺に持ち込み寺の什物にしているほどで、里見氏への関心はつよい人でした。境内の墓地に里見義実の墓としてあるものは、この人が明和八年(一七七一)に建てた供養塔です。里見義実にはじまり成義・義通・義豊までの里見氏歴代の木像もこの人のときに作られたのでしょう。
 延命寺でも弘化四年(一八四七)に里見実尭の木像(義康という説もあります)が作られています。大正十二年(一九二三)の関東大震災までは、実尭から忠義までの後期里見氏六代の木像があったといいます。みな実尭の木像と同じ頃に作られたのでしょう。鯖江里見氏による位牌の奉納もふくめて、里見氏の菩提寺では江戸時代に里見氏についての記録がまとめられ、参拝する人々への里見氏の顕彰が行なわれていくようになったのです。一方、文化十一年(一八一四)に『南総里見八犬伝』の出版がはじまって、次第に人気がたかまっていくと、里見氏に関心をもつ人々による顕彰も盛んになったようです。文政十二年(一八二九)には、江戸に近い下総国国府台村(市川市)国府台合戦の古戦場跡に、地元の人が里見方で戦死した将兵たちの供養塔を建立しているのは、そんな影響もあるのではないでしょうか。安房地方でも、里見成義の墓があったと伝えられていた白浜村の青木(白浜町)で、地元の人によって天保三年(一八三二)に里見氏の記念碑が建てられました。

郷土史への関心
 明治時代になると、政府はすぐに天皇中心の日本の歴史をまとめる事業をはじめました。そのなかで地域の地名や地形・産物・習慣・伝承などをまとめた地誌の編纂もはじめます。内務省地理局は『大日本国誌』を編纂するために各府県に郡村誌を作成させて、明治十九年(一八八六)に『安房国誌』を刊行しました。この事業は続きませんでしたが、安房の分だけでも出版されたことは、安房地方の人々にとっては大きな刺激になったことでしょう。明治十六年頃に嶺田楓江が編纂した『千葉県古事志』が参考にされたようですが、国誌の編纂のために安房地方の人々もその情報集めに奔走しました。『安房国誌』刊行には間に合いませんでしたが、明治十八年に各村から村誌が提出されたのです。そして郷土の寺社・旧跡・人物・伝承に対して関心が向けられていきました。
 地誌というかたちで郷土に目を向ける試みは、当時の学校教育のなかでも教科書として作られた、『千葉県地誌略』や『千葉県小学地誌』などをとおしても行なわれていました。また明治二十年代中頃以降、夏季を中心に安房への来遊者が増えてくると、『安房名勝地誌』のように安房地方を紹介する手段として地誌のかたちをとった出版物が現われました。以後、大正時代にかけて旅行者が増えるのにともなって、地誌の影響を受けた観光案内書がつぎつぎと出版されるようになっていきました。そして里見氏に関する地域の伝承が広く根付いていくことにもなったのです。
 また、安房地方の案内書などの出版物に大きな影響を与えたのが、明治四十一年(一九〇八)に出版された『安房志』でした。県立安房中学校(県立安房高等学校)の教諭斎藤東湾が編纂したもので、これは『千葉県古事志』を参考に古典籍や諸記録、伝承などから安房地方の歴史情報を集めた資料情報誌といえるものです。町村順でテーマ毎に編纂したもので、里見氏に関するテーマも多く、また巻末には里見氏分限帳や里見氏の系譜、里見家臣録、里見氏の城郭なども載せていて、里見氏に関する情報をまとめたことに大きな意義のあるものでした。

里見氏古蹟保存事業
 そうした関心のひろがりは、里見氏の顕彰にも結びつきました。明治四十一年に、船形町の旧里見家臣の正木貞蔵や、『安房国誌』が編纂されたときの郡長で北条町の名士吉田謹爾らが中心になって、里見氏の墳墓の整備をはじめたのです。白浜の杖珠院にある義実の墓、本織の延命寺にある義尭・義弘の墓、青木の光巌寺にある義頼の墓、真倉の慈恩院にある義康の墓、そして犬掛の大雲院跡にある義通・義豊の墓もこのときに囲いがつくられて、里見氏の塋域として整備されたのでした。翌明治四十二年に完了して、延命寺の門前に里見氏の墳墓の修理を記念して碑が建てられました。その石材は、かつて鯖江里見氏の義孝が、先祖の墓の修理をするために江戸から送った石材で、そのまま残されていたものだということです。このとき『里見氏古蹟保存紀念帖』が作られて、延命寺・杖珠院・誕生寺・清澄寺・宝珠院・鏡忍寺・日本寺・那古寺・慈恩院・光巌寺の十か所に納められたそうです。
 また江戸時代の出版以来、芝居などをとおして人気が定着してきた『南総里見八犬伝』が、明治・大正時代になると普及本も数多く出版されるようになりました。そしてそれを受けるかのように、安房を訪れる人々が八犬伝のゆかりの地を訪ねるようになってきたのです。舞台のひとつ富山(富山町)では、山内にあった洞窟が八犬伝に登場する伏姫の洞窟として宣伝されるようになり、大正元年(一九一二)には登山道が整備されて入口に道知るべも建てられています。さらに大正八年には童話作家として知られる巌谷小波の句碑が、八犬伝のテーマで山頂に建てられました。こうして八犬伝の人気に後押しされて里見氏への関心もたかまっていきましたが、里見氏の歴史と物語の八犬伝が、人々の意識のなかに混在していくことになりました。

『房総里見氏の研究』
 里見氏に対する安房地方の人々の関心は高まっても、里見氏に関する記録は本によって違い、生没年も系図によってまちまちであったり、記述されている内容の時代や事柄がまちがっていることも多く、里見氏の歴史の全体像がなかなか分かりずらいという面がありました。
 それを里見氏の時代に書かれた史料をつかって訂正し、また里見氏の時代の房総や関東全体の歴史の動きと照らし合わせて何が正しいのかを判断して、里見氏の歴史を整理し明らかにしたのが、昭和八年(一九三三)に発表された大野太平の『房総里見氏の研究』という仕事でした。七百ページにおよぶその研究は、それ以後の里見氏に対する認識の基本となり、研究者のあいだでも大きな影響力をもち続けました。
 大野太平は岐阜県の出身で、大正二年(一九一三)に安房高等女学校(県立安房南高等学校)の歴史教諭として赴任してきました。病気がちだった太平は、大正十四年からは安房水産学校の嘱託教員になって房総地域の歴史研究に没頭していきました。その研究態度は単に郷土を礼賛する郷土史ではなく、史料に基づく事実確認を怠らず、実証による客観的な研究がのちのちまでのこの研究に対する信頼を失わせなかったのでした。

戦後の里見氏研究
 戦後、実証による研究を発展させるために、歴史史料を数多くしかも地域ごとに分別して集めることが自治体を中心に行なわれるようになってきました。千葉県でも千葉県に関する歴史の史料を集めて、昭和三十七年(一九六二)に『千葉県史料 中世篇 諸家文書』、昭和四十一年に『千葉県史料 中世篇 県外文書』として公表されることによって、里見氏の時代の古文書が数多く発見されて、千葉県の歴史の研究はもちろん、里見氏に関する研究でも新たに明らかになることや、間違いの訂正もおこなわれるようになっていきました。
 大野太平の研究以来、遅々として進まなかった里見氏の研究が新たな展開をみせたのは、川名登による研究でした。昭和三十八年に発表した「房総里見文書の研究」は、徹底した実証主義で里見氏の歴史を見直したものでした。里見氏は義尭以降の五代であるという仮説を提唱して、文献による基礎研究をすすめました。そして昭和四十三年に出版した『南総の豪雄−里見義尭』(のちに『房総里見一族』に改題)で、新しくしかもわかりやすい里見氏の歴史の姿が示されました。
 しかし大野太平の研究成果は広く根を張っていて、新しい研究T。
 「敗壊転倒奇かな妙かな」ではじまる棟札の願文には、自分の没落を奇妙と評する改易直後の忠義の心境がつづられ、房州太守の身でありながら、徳川家の威風によっていまは西国倉吉の地にあること、世の流れで西国に斜陽の日を送っているが、太陽も月も地に落ちることはなく、やがては再び東から明るい光をさしてくれる時がくることを信じていることなどを記しています。あからさまな徳川家への無念の思いと、東国にある故国へ復帰することを願う気持ちが込められているのです。そして安房国民の変わらぬ里見家多くの人々による研究の成果は、これまでとまったく違う里見氏の時代の人々の姿を浮き上がらせるようになってきています。里見氏を郷土の誇りとして賛美するだけでなく、正しく理解して、その歴史がわたしたちの郷土にどのようにつながってきたのかを考える視点が求められるようになってきています。
 戦国時代の研究はどんどん進んでいます。里見氏の研究もそれに刺激されて新しい視点がつぎつぎに加わって、これからますます進んでいくことでしょう。ここに書いた里見氏の歴史も研究の途中の段階のものにすぎません。これから付け加えられることも、訂正されることもでてくるでしょう。ですからこれからも間違った認識はきちんと改め、正しい理解を深めていくようにしたいものです。

第六章 そして里見氏はいなくなった

その後の里見氏
里見氏以後の安房と家臣たち
里見氏顕彰と研究の歴史