代官中村弥右衛門
 慶長十九年九月、里見氏がいなくなった安房国はどうなったのでしょうか。しばらくは館山城の受け取りに
きた佐貫城(富津市)主の内藤政長が管理しましたが、幕府は里見氏がいなくなったあとの安房を分割して旗本や小大名たちに配分するため、安房国内の石高の調査をやり直すことにしました。その全権を任せれて安房にやってきたのが、代官の中村弥右衛門尉吉繁とその補佐をした手代の熊沢水三郎左衛門忠勝でした。
 弥右衛門は岩槻藩(埼玉県岩槻市)主の高力清長の家臣から幕府代官に取り立てられた人で、戦国時代に岩付城主太田氏の勢力下だった浦和(埼玉県浦和市)筋の在地支配を行なって実績をあげたことから、里見氏の旧
領の支配を任されたのでしょう。元和元年(一六一五)四月頃から、浦和の陣屋と安房とを往復しての支配がはじまりました。四月には早速大坂の陣に向けて、館山の新井浦と楠見浦から船乗りを集めて、大坂までの兵糧米の輸送を命じています。
 浦和での支配は太田氏の家臣だった熊沢三郎左衛門を起用して成功したことから、安房でも里見氏に仕えて館山城下町の建設の責任者となり、名主役を勤めていた岩崎与次右衛門を起用して、引き続き館山の名主役を命じました。そして館山城下での商人の支配や米の売買の管理、漁師や運送業者に命じての江戸城への魚の献上をふくめて、流通や経済の運営、町の支配をまかせました。
 また九月には里見家から所領を寄進されていた国内の寺社からその寄進状を提出させ、翌元和二年九月に幕府の許可を得たうえで、弥右衛門の名前で由緒のある寺社九十八か所に所領をあたえました。そして一部をのぞいて里見氏のときとほぼ同じ所領を与えて保護をしたのです。年貢も改易のあった慶長十九年にさかのぼって渡しました。
 元和四年(一六一八)になると安房国内全域の検地をやり直しました。耕地を広げて年貢も増やすためで、その作業のために二十人以上の代官が送り込まれています。八月の末から十月上旬にかけて実施され、その結果安房国全体で九万二千六百石ほどにはなったようです。
 その後代官の仕事はしだいに熊沢三郎左衛門に引き継がれていくようになり、寛永元年(一六二四)に弥右衛門が没してからは、三郎左衛門が安房の幕府領の支配にあたりました。この三郎左衛門は寛永三年に鶴谷八幡宮を武蔵国芝村(埼玉県川口市)に勧請して、鶴丸八幡宮を建てるということもしています。そして三郎左衛門は、おそらく寛永十九年(一六四二)十二月にほぼ旗本・大名への引渡しを終えるまで、安房国の代官を勤めていたのでしょう。この十九年十二月に、三郎左衛門は幕府から二百俵の扶持米を与えられています。慰労の意味があるのでしょう。

安房の新支配者たち
 元和四年(一六一八)の安房国の総検地が終わって、国内の耕地の生産力が把握されると、幕府の支配から徐々に旗本や小大名に村々が配分され引き渡されていきました。その皮切りは元和六年で、西郷正員に長狭郡・朝夷郡で一万石が与えられました。正員は下総国生実(千葉市)で五千石を知行し、慶長十九年の館山城請け取りにもかかわった旗本でしたが、このとき東条村(鴨川市)に陣屋を設けて東条藩とし、これで大名になったわけです。東条藩は元禄五年(一六九二)に信州上田(長野県上田市)へ移るまで安房での支配を続けました。これ以降寛永年間にかけて、五千石を越える大身の旗本を中心に所領が分け与えられていきました。
 大名では元和八年(一六二二)に内藤清政が三万石で勝山藩(鋸南町)をおこしています。しかしその翌年に清政が没して一時廃藩になってしまいました。寛永十年(一六三三)になると常陸国玉取藩(茨城県つくば市)主の堀利重に千三百石余が、寛永十五年(一六三八)には十万石の松本藩(長野県松本市)主堀田正盛に一万二千石余が与えられています。またこの年には、寛永九年に改易された駿府藩主徳川忠長に付属していたため蟄居になっていた、屋代忠正と三枝守昌が許されて、それぞれ一万石の大名になり、屋代氏は北条村(館山市)に陣屋を設けて北条藩をおこしています。しかし三枝守昌は翌年に没してしまい、その跡は三枝守全と諏訪頼増の兄弟に分けられたため、両者とも旗本になってしまいました。頼増の所領だった山名村(三芳村山名)の智蔵寺には守昌と頼増の供養塔があります。
 旗本では、内房の海岸沿いで御船手を勤める人々に所領が与えられています。元和八年(一六二二)に小浜守隆が富浦町の南無谷から岡本にかけての周辺で千五百石、寛永二年(一六二五)に石川政次が館山城下を含む館山湾南岸一帯(館山市)で四千五百石、寛永十年(一六三三)には政次の弟石川重勝に館山湾北岸の船形・那古(館山市)を中心に千石が与えられています。この寛永十年四月には一斉に所領の充行が行なわれていて、石川重勝のほかにも田中・大久保・保科・本多・酒井・内藤・三枝・植村・高木などの旗本に所領が与えられました。
 そして寛永十九年(一六四二)十二月に、石川・北条・松平・上野などの旗本に所領が与えられて、ほぼ安房国の所領配分は完了しました。その結果幕府の直轄地は二千二百石ほどになっていました。寺社に与えられた朱印地も二千二百石余で、残りの八千八百石余りは、ほとんどが旗本と小さな大名たちに分け与えられたのです。安房国内に陣屋のある大名が二家、安房以外に陣屋か城をもつ大名が二家、そして二十一人の旗本たちの所領になったのでした。

再仕官する家臣
 ところで、主人を失った里見家の家臣たちは、その後いったいどうなったのでしょうか。大きく分けると、別の主人に仕えて武士として生き残りをかけるか、安房の国内で農民として土着して生きていくケースになります。もちろん別の生き方もあるわけで、『南総里見八犬伝』で有名な曲亭馬琴が書いた『我衣』のなかに、江戸の髪結いという職業は、寛永の頃(一六二四〜一六四四)に里見の浪人が始めたものだという話が載っています。仕官をもとめて江戸へ出たものの浪人になってしまうケースもあったのでしょう。
 再仕官のケースとしては、慶長十九年(一六一四)の館山城の請け取りのときに総指揮をとり、代官中村弥右衛門が赴任するまでのあいだも、館山城に勤番する大名たちの組頭を勤めていた内藤政長に仕えた家臣たちがいました。政長は三万石の上総国佐貫城主でしたが、元和元年(一六一五)には安房勝山(鋸南町)周辺で一万石を加増され、五年(一六一九)にはさらに五千石を加えられて、大名として大きくなっていった時期でした。それにともなって家臣の増員が行なわれていたことから、元和八年に岩城平(福島県いわき市)に領地が移されるまでのあいだに、里見家の浪人からも仕官がかなった者がでたのでした。その数は七人だったといいます。百人衆の楠六左衛門の子楠市兵衛や中家老正木淡路守の嫡子正木主馬之助などの名が知られています。
 里見家の御一門衆に加えられていた元勝浦城主の正木頼忠の子康長の場合は、姉のお万や兄三浦為春が徳川家康との強い縁故をもっていたことから、浪人してすぐに家康のはからいで将軍秀忠の仕えることができました。旗本として御書院番を勤め、寛永十年(一六三三)には武蔵国埼玉郡(埼玉県加須市等)で七百石の所領を与えられています。子孫は勝浦正木氏の継承者として代々徳川家に仕えました。
 この勝浦正木の一族の場合は、お万や為春の口添えで和歌山藩や水戸藩をはじめ再仕官できた者が数多くいます。頼忠の五男左京亮時明は、越後高田藩主で家康の六男松平忠輝に仕官しました。忠輝の近臣だったらしく、忠輝が元和二年に配流となると、これに従って伊勢朝熊・飛騨高山・信濃諏訪を転々としています。六男の勘助定利は和歌山藩に仕官しています。頼忠の兄時勝の次男甚右衛門と兵庫時秀(足軽小頭)の子主膳はともに水戸藩に仕官できました。
 また水戸藩には、里見忠義の祖父義頼の弟で御一門衆の薦野甚五郎の子孫が仕官したと伝えられているほか、寺社奉行岡本兵部少輔の子孫岡本数馬も元和七年(一六二一)に仕官したことが知られています。
 嘉永五年(一八五二)の美濃国大垣藩(岐阜県大垣市)戸田家には、正木仙之丞という五十石の中級藩士がいました。この家は先祖の本国が安房であるとされていて、正木宗右衛門という人物が寛永十一年(一六三四)に、その当時尼崎藩主だった戸田氏鉄に仕官したと伝えられています。この人物も里見家改易後に浪人して再仕官の口をさがした人なのでしょう。
 正木大膳亮時茂の子時俊は、館山城の受取にもきていた戸田康長に仕官し、その子時盛のときにはもとの主君里見忠義の妻の実家大久保家に仕えたといいます。このように決して多くはない伝手をたよって、武士として生き残る道をさがした人々は大勢いたことでしょう。

帰農する家臣
 一方、武士をすて村方へ入っていく家臣たちもたくさんいたようです。江戸時代の安房国内の村には、里見氏の旧家臣だったと伝えている有力農民が大勢いて、そのなかには名主や組頭などの村役人を勤めるものも多くありました。今も安房地方には、里見氏から与えられた古文書を伝えている家がたくさんあります。また系図や家の由緒書きに、里見氏の家臣だったことを記していることもあります。明治四十一年(一九〇八)に出された『安房志』という本には、その当時安房地方に住んでいた里見氏の旧家臣と伝える家を八十一家載せています。
 どのようにして武士だった家臣たちが村に入り、土着していったのかはよくわかっていませんが、先祖代々の土地にもどるケースが多かったのではないでしょうか。使番十人衆の石井駿河守が、義康や忠義から与えられた所領ではなく、先祖代々の地である本領の江田村に土着しているのはその例です。そのようなケースでは、知行地とは別に先祖伝来の土地を検地の際に登録して権利を確保していたのでしょう。そうした人々が自分の土地へ戻っていったということではないでしょうか。
 別のケースとして参考になる例が、江戸時代に船形村(館山市)で代々名主を勤めた正木家の土着のケースがあります。初代を正木久右衛門といって、寛文七年(一六六七)に死んでいますので、里見家の改易があった慶長十九年(一六一四)にはまだ若かったはずです。久右衛門は内房の里見水軍を統括する正木淡路守とつながる
系統の人物のようなのですが、里見家が改易になると船形村の鈴木弥惣右衛門という有力農民を頼り、その長女と結婚して正木姓のまま船形村へ土着したと伝えられています。弥惣右衛門に土地や屋敷を分けてもらったのでしょう。船形村には城と湊があり、水軍とゆかりの村だったことが考えられます。その土地の有力農民とのつながりをたよりに、一族になることで村に土着したというケースではないでしょうか。
 沼村(館山市)の有力農民で幕末に名主を勤めたこともある川名家でも、先祖の某六郎衛門忠興という人物が、里見家が改易になると、母の縁者をたよって沼村に住むようになり、川名の姓に替えたと伝えられています。忠興は文禄四年(一五九五)生まれで、改易の年には二十歳でした。姓はわかりませんが、父が六左衛門というので、百人衆の楠六左衛門という人物かもしれません。忠興は改易の翌年に沼村に住むようになったといいます。川名は母方の姓で、沼村の有力農民だったということではないでしょうか。その家を分家するか継ぐことで土着したのかもしれません。
 また改易の頃に所領にしていた村に住むようになった家臣もあります。奏者の関神平は単独で支配していた戸川村(三芳村)に土着しました。本織村(三芳村)に土着した足軽小頭の竹田藤兵衛、上堀村に土着した二十人衆の中村十右衛門なども知られています。里見忠義の子と伝えられる羽山春光のケースでも、春光を引き取った羽山喜右衛門は、代官として管理していたと伝えられる正木村(館山市)に土着しています。彼らがどのように耕地や屋敷地を確保したのかは明らかではありませんが、その地がもともと先祖伝来の土地だったということかもしれません。
 家臣のなかにはそもそも百姓だったものも多くいました。馬乗衆は三十俵の禄をもらう里見氏の家臣でしたが、その大部分は自ら耕作する土地をもつ人々でした。中間や船手、御馬屋の者という下級家臣も百姓からの採用でしたから、そうした人々は自分の土地に帰っていったことでしょう。

第六章 そして里見氏はいなくなった

その後の里見氏
里見氏以後の安房と家臣たち
里見氏顕彰と研究の歴史