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国替の沙汰
慶長十九年九月九日、忠義は将軍に恒例の重陽の祝いを述べるために、江戸城へ出仕する日でした。ところが拝賀の前に土井利勝・酒井忠世・安藤重信ら老中からの使者があり、この日忠義に言い渡されたのは、国替え、つまり安房国の所領を他国へ移すという突然の報せでした。安房は江戸に近いので蔵入とし、替地は常陸国鹿島郡に隣接する行方郡で九万石を渡すというのです。そしてさらに大久保忠隣の孫忠職の屋敷にしばらくひとりで控えているようにとの命があったのです。その理由は大久保忠隣の一件への連座ということでした。ところがこのとき大久保家では、当主の忠職は領地の武蔵国騎西城(埼玉県騎西町)で謹慎しており、江戸の屋敷に当主はいない状況だったのです。
この年の正月、大久保忠隣は本多正信・正純父子との抗争に敗れて、小田原の所領を改易されていました。忠隣の一件とはこのことなのです。改易の理由は、忠隣の養女を幕府に無届けで常陸国牛久(茨城県牛久市)城主の山口重政に嫁がせたというものでした。この件で山口重政はすでに一年前に改易になっており、それをことさらに持ち出しての忠隣改易でした。じつは改易にいたる真相は、そのひと月前に馬場八右衛門という武士が忠隣に謀反の計画があることを本多正信に訴えたことが引き金でした。これを家康が取り上げて、幕閣の土井利勝も加わり決定されたということですが、謀反の計画自体が忠隣の失脚をねらった正信の陰謀だといわれています。
孫の忠職が領地で謹慎になっていたのはこのためでした。しかし先祖の功績で罪が減じられたうえ、忠隣の子息たちもみな蟄居しただけで後には許され、まして母の実家へ養子にでていた子息たちは罪にさえも問われませんでした。それに比べると半年もたってから忠義が国替えになったというのは、忠隣の一件が口実でしかなかったことを物語っています。
それにしても国替えとなれば、家臣・一族がこぞって百年以上親しんだ安房から去らなければならないということです。このとき幕府が出した条件は、おとなしく国を出ていくならば当面は鹿島の領地へ移れ、もし館山城に立て篭もって渡さないのであれば攻め殺すという厳しいものでした。
館山城請取軍
そして館山城受け取りの軍はただちに編成されました。上総国の佐貫城主内藤政長と大多喜城主本多忠朝を中心に、下総国小弓の西郷正員、常陸国笠間の戸田康長、常陸国松岡の戸沢政盛、上野国伊勢崎の稲垣重綱、下野国壬生の日根野吉明、下野国板橋の大給成重、下野国西方の藤田重信、下野国那須郡の那須資景はじめ大田原晴清・大田原増清・福原資保・蘆野資泰・大関政増・千本資勝といった那須衆など、近国の大名・旗本が大動員されて大挙してやってきたのです。
九月十三日には将軍秀忠から城受取りの軍勢が守るべき軍令が出されています。内容は、陣中の指揮は内藤政長に従うこと、喧嘩口論の禁止、商人たちへの押買い狼藉の禁止、田畑踏み荒らしの禁止、百姓への狼藉禁止、人さらい・人身売買の禁止、伐木の禁止、薪などの調達は島田次兵衛・本多藤左衛門の指示に従うこと、などが触れ出されました。これはまさに戦場を想定しているものでした。そして城受取りの軍勢は十六日には安房へ到着、この日内藤政長から吉浜の妙本寺へ禁制が出されました。妙本寺での狼藉や伐木をしなことを保障したもので、それは妙本寺を陣場や戦場にしないということであり、軍事目的での山林伐採をして寺に迷惑をかけないという約束でした。
忠義が国替えを言い渡されたことは、館山へもその日のうちに船で報せがあったことでしょう。しかしこうした幕府の処置に対して、安房にいた家臣たちは大きな抵抗はできなかったようです。主人忠義は江戸で謹慎している状況なのです。軍勢が江戸を出立してから五日後の九月十八日には、早くも館山城は接収されて、幕府役人の島田次兵衛・本多藤左衛門によって里見家の荷物が運びだされ、船で鹿島へ送られていきました。この段階ではまだ鹿島郡の領地は没収されておらず、安房国九万石の分の国替えという前提で話が進んでいたのでしょう。館山の重臣たちは幕府の処置に従い、館山城を明け渡したのです。
抵抗の伝承
しかし合戦には至らなくても、一部の家臣のなかには安房からの退去ということへの抵抗はあったのかもしれません。館山市出野尾に伝わる十三騎塚伝説は、館山城の見える山の上で十三人の家臣が自害したことを伝えています。それは城明け渡しを無念に思って自害をした人々がいたことを伝えているように思えます。その日は館山城受取の軍令が出された九月十三日のこととされています。その日までに館山城内では城明け渡しが決定されたのかもしれません。ただし十三塚信仰との関連で十三日にされただけのことかもしれませんから、あまり当てにすることはできない日付です。また里見義豊の子孫と伝えられる長田義直が九月九日に討死したという伝承や、一門衆の薦野甚五郎がその家臣六十四人ともども内藤政長に討たれ、館山城で討死した者は合計千五百人に及んだという伝承もありますが、これらは城を明け渡した家臣やその子孫たちの、無念の思いが生み出した伝承のように思えます。
安房支配の終り
さて城が明け渡されると、館山城は多くの受取りの軍勢によってまたたくまに壊されていきました。御殿などの建造物はもちろんつぶされて堀に捨てられ、その堀も埋められました。堀跡に埋められていた材木片が昭和五十九年に発掘されたことがあります。建物の屋根材などのようで、たしかに堀が埋められていたことが確認されました。館山市上真倉にある泉慶院の池として残る部分や、現在も一部を見ることができる天王山から御霊山、そして大膳山にいたる小高い位置の堀を残して、館山城を取り巻いていた堀はすべて埋め立てられ、その後水田としてつかわれるようになりました。堀の埋め立ては九月の下旬にはおおむね終わったらしく、館山城の在番として組頭の内藤政長と勤番の西郷正員を残して、受取の軍勢は引き上げていきました。
一方行方郡へ移るつもりで忠義の妻子や家臣たちが鹿島までいくと、幕府の使者から伝えられたのは行き先は伯耆国(鳥取県)ということでした。江戸では、常陸国行方郡への国替えを突き付けられた忠義が、これを拒否したと伝えられています。その結果安房国の替地だった行方郡がすべて没収されることになったのでしょう。そして残った鹿島郡三万石も幕府に取り上げられ、その替地として伯耆国久米郡・河村郡(鳥取県倉吉市、等)で三万石を与えられるということが決定されたのです。それは十月十日に駿府の家康から言い渡されたとされています。しかし伯耆国倉吉まで赴いた忠義に与えられたのはわずか四千石余りにすぎず、また倉吉では蟄居の処分であったとも伝えられています。事実上の改易になって、百五十年以上にわたる里見氏の安房支配に終止符が打たれたのでした。
改易の背景大坂の陣
館山城の引渡しをうけて城として役立たないように壊し、そして引き上げていった軍勢のうち、大給成重は目前にせまった豊臣家との合戦に備え、九月下旬には館山から急遽小田原城へ移って在番しています。戸沢政盛も同様に小田原城に在番したようです。その他の軍勢も合戦に備えて大坂へと向かっていきました。
この年徳川家康は豊臣家との決戦を決意して、合戦に持ち込むための口実と時期を見計らっていたのです。そしてその口実は、八月に予定されていた京都東山にある方広寺大仏の再建にともなう難題となってあらわれました。なかでも有名な鐘銘事件が豊臣家滅亡の直接の原因になったといわれています。家康の名前を二つに割って呪ったといわれた「国家安康」の文字と、豊臣家の末長い繁栄を祈ったといわれた「君臣豊楽」の文字に対するいいがかりでした。その弁明のために駿府(静岡県静岡市)の家康を訪ねた豊臣・徳川両家の交渉役片桐且元は、豊臣家ではとうてい受け入れられない条件をもって九月に大坂へ戻りました。交渉は決裂して且元が大坂城で孤立、大坂方の軍勢に囲まれる事態にまでなったのです。そして十月一日、好機とみた家康は東海道・東山道の大名たちに大坂出陣の命令を下しました。家康自身も十月十一日には駿府を出立、将軍秀忠も二十三日に江戸を出発して、豊臣家との決着をつけるための冬の陣がはじまったのは十一月のことでした。秀忠が江戸を立つとき、館山城の内藤政長と西郷正員に安房の押さえが命じられました。里見氏はいなくなったものの、安房に残った旧家臣たちが大坂方に応じて動くことを警戒したのでしょう。
改易の理由
このように里見家が安房国を追われることになったのは、まさに大坂討伐の企てが着々とすすんでいた時期だったのです。里見氏改易の理由については、大久保忠隣への連座という公式見解とはべつに三つの理由があったとも伝えられています。そのひとつは大久保忠隣のもとへ米や足軽を送って謀反に加担したこと。その二は館山城を補修し、道をつくり堀を掘るなどして城を堅固にしたこと。その三は家臣を多く抱えすぎていること。これらが幕府への反逆を企てているという嫌疑になったというのです。忠隣の謀反が事実無根であれば忠義の加担もありえないのですが、指摘されたひとつひとつの事実はあったのかもしれません。
百年以上の歴史をもつ里見家には、百姓のまま家臣としての位置づけをされる百人衆や足軽が多いうえ、上総から引き上げた家臣がいるのですから、そもそも十二万石には不相応な数の家臣がいたことは十分にありえます。城郭の補修にしても、天正十九年(一五九一)に館山城に移転してからは、秀吉・家康のもとでの朝鮮への出兵や関が原の合戦、江戸城や御所の普請など、常に経済的な負担を負っていたため、本城としての館山城の整備は短期間ではできるはずもないものでした。館山城にめぐらされた堀にしても鹿島堀の名称が残っているように、鹿島領を加増されてから鹿島の領民がつくったと伝承されています。つまり慶長六年(一六〇一)以降につくられたもので、時間をかけて城普請が進められていたことがわかります。慶長十九年(一六一四)になっても館山城の整備はすすめられていたのでしょう。小田原の大久保家への米や足軽の支援については事情はわかりませんが、軍事支援ではなく単純な経済支援かもしれません。
いづれにしてもこの三箇条についても改易の口実とされただけのことで、里見氏改易の本来のねらいには、大坂との合戦をひかえているという幕府の事情があったと考えられています。それは安房という土地の立地条件が里見氏に災いしたといえるものでした。房総半島の先端にあって江戸への海路の入り口にあたる安房は、軍事的にも経済的にも江戸への海上交通の要衝でした。たとえ大坂との合戦がなくとも、江戸の近くに残った大きな外様の大名である里見氏は、いづれ安房から動かされることにはなったでしょう。それが大坂への出陣をひかえているとなれば、背後の脅威を取り除いておくのは幕府として当然の対策だったといえるのではないでしょうか。この年七月に取り潰された下野国春日岡(栃木県佐野市)三万九千石の佐野信吉も、戦国時代以来の佐野の領主でした。大久保忠隣との関わりがあったことが改易理由のひとつにあげられていますが、同じような背景があったのかもしれません。
倉吉への旅
十月十日を過ぎてから倉吉に向けて江戸を立った忠義一行は、いったん駿府へ立ち寄っています。家康はすでに大坂へ出陣して留守でしたが、ここには里見家の一門衆の頭である正木大膳亮時茂がいたのです。駿府には里見家か正木大膳家の屋敷があったらしく、大膳は忠義が改易になる一年以上前から駿府にいたといいます。大膳の家臣上野大蔵丞仲国も駿府に長く滞在し、ときどき館山との往復をしていたようです。駿府にいた正木大膳は里見家が国替えの沙汰をうけたことを知らなかったと、のちに上野仲国は述べています。大膳が一年以上も家康のいる駿府に滞在していた理由はわかりませんが、家康から内々に呼び出されていたのだといいます。里見家を支えてきた正木大膳を江戸の忠義とも安房の家臣たちとも切り離したうえで、国替えを言い渡しているわけで、家康にとっては里見家のまとまりを欠くための手段のひとつだったのでしょう。
家康は大坂へ向う前日の十月十日、大膳にも妻子とともに忠義に従って伯耆国へ行くことを命じました。忠義一行は十月二十三日に駿府を出立しています。そしてそのあとを追うようにして二十九日に駿府へきた家臣たちがいました。上野仲国たちです。九月には館山へ戻っていたらしいのです。駿府で国替えにともなって生じる事態についての情報を仕入れると、二日後には伯耆へ向けて出発しました。駿府で仕入れた情報は次のようなものでした。国替えを言い渡された九月九日以前の本年貢と今年の夏の畑年貢は幕府に収納されてしまう。そのため年貢を受け取りたければ幕府に届けておけばよい。ただし年貢を受取ったものはその家族ともども安房を出国しなければならない、ということでした。すでに駿河まで来ていた上野仲国の選択は、年貢を受取って伯耆国へ行くことでした。そのため安房に居残った親類の上野七左衛門に年貢の受取りと家財道具の売り払い、そして召使いも含めて家族を伯耆へ出立させることを依頼しました。このときに出家をさせて安房にとどめた子供もいて、勢誉と名乗りのちに清
澄寺の住職になっています。
忠義たちが倉吉についたのは十二月になってからでした。大坂では十一月中旬には冬の陣がはじまっており、十月の末から十一月には京都・大坂近辺は騒然としていたことでしょう。倉吉へ向った里見家の家臣たちは多くなかったといわれていますが、すでに家康が着陣していた京都は避けて山陰道へ入ったかもしれません。大坂冬の陣のさなか、幕府からは伏見城在番の稲垣重綱と山田直時が使いとして領地の引渡しにやってきました。しかし与えられたのは三万石ではなく、久米郡と河村郡のうちでわずかに四千石にすぎませんでした。それだけ渡して引継ぎを済ませると、翌年の元和元年(一六一五)六月にはふたりとも大坂へ帰ってしまいました。
屋敷は倉吉の神坂町と山里の堀村(鳥取県関金町)の二か所に与えられました。神坂町は倉吉市の市街地です。この町は、天正年間に豊臣秀吉から東伯耆の久米・河村・八橋三郡を与えられた南条氏が、居城の羽衣石城(鳥取県東郷町)の支城として残した打吹城の城下町としてつくられたところです。しかし南条氏は関ケ原の合戦で西軍について滅亡、その後は米子城主の中村氏が支配し、慶長十五年からは幕府領になっていました。忠義はその城の麓で屋敷を与えられたのです。
里見家の落日
また忠義に従ってきた家臣には、正木大膳のほか家老の堀江能登守・重臣の板倉牛洗斎などがいたようですが、家臣の数は少なかったと伝えられています。三万石での移封ではなく罪人として伯耆国で蟄居するという情報が、安房の家臣たちには伝わっていたのかもしれません。しかし四千石とはいえ、寺社への寄進や社殿の修造はできたようで、元和元年十一月には屋敷の近くにある大岳院に三石ほどの寺領を寄進、翌元和二年(一六一六)九月には郊外の北野村(倉吉市)で天満宮を再建しています。
同じ年、倉吉近郊にある北条郷(鳥取県北条町)の山田八幡宮の修理事業も行いました。八幡宮の修造は、永正五年(一五〇八)に里見義通が安房国北条郷の鶴谷八幡宮で行なって以来、代々の当主が行なってきた事業でした。しかし忠義は鶴谷八幡宮の修理をすることなく倉吉へ移されてしまったのです。そのため伯耆国北条郷の八幡宮でそれに代えたのでした。その時に奉納された棟札には忠義の心情がよく表されています。
「敗壊転倒奇かな妙かな」ではじまる棟札の願文には、自分の没落を奇妙と評する改易直後の忠義の心境がつづられ、房州太守の身でありながら、徳川家の威風によっていまは西国倉吉の地にあること、世の流れで西国に斜陽の日を送っているが、太陽も月も地に落ちることはなく、やがては再び東から明るい光をさしてくれる時がくることを信じていることなどを記しています。あからさまな徳川家への無念の思いと、東国にある故国へ復帰することを願う気持ちが込められているのです。そして安房国民の変わらぬ里見家への思いを信じ、主君として忠孝の武勇の道を尊び、仁義礼智信の五つの道徳を実践することが子孫への責任であると主張しています。忠義は安房で家を再興することを願っていたのです。
ところが元和三年(一六一七)三月、姫路から鳥取藩主として移ってきた池田光政が、因幡・伯耆の二か国を支配することになると、重臣伊木長門守が倉吉に陣屋を構えました。忠義は池田家の監視下に置かれることになったのです。それは池田家にお預けの処置になったも同然のことでした。そしてその年の秋には倉吉郊外の田中村へ屋敷を移されて、四千石は召し上げられ、わずかに百人扶持だけが与えられました。さらに元和五年の冬になると堀村の上屋敷に移ってしまい、それ以後は病気がちになっといいます。
里見家断絶
そして元和八年(一六二二)六月十九日、ついに養生もかなわず二十九歳の若さで忠義は病死しました。忠義の死亡は池田家から幕府老中に届けられ、里見家には相続者なしとされて断絶が言い渡されました。しかし忠義の死亡の確認には時間がかけられました。池田家では重臣を派遣して忠義の死亡を確認するとそれを江戸屋敷へ報告していますが、江戸家老は忠義の死亡をいったん老中へ届け出たあと、七月九日に再度忠義の死亡が病死に間違いないかを、在所の者や出入りの医者から確認するように指示をだしています。その調査報告をまってもう一度老中に届け出たものと思われます。池田家は慎重に対応したのでしょうが、そのときの手紙をみると、夏の盛りにもかかわらず遺骸はその間放置されていたように読み取れます。
忠義の遺骸は倉吉の町外れにあたる常光寺川原で荼毘に付されたと伝えられています。里見家は安房では代々が曹洞宗の寺院を菩提寺にしていたことから、墓は曹洞宗の大岳院に建てられました。忠義はその大岳院に元和三年九月に病死した家老堀江頼忠の墓も建てていました。忠義が死んで三か月たった九月十九日、板倉牛洗斎をはじめとする残された家臣たちが主人忠義の後を追って殉死しました。堀村の屋敷跡には殉死した家臣が六人塚として祀られています。倉吉の大岳院の忠義の墓所には八人の殉死者が葬られ、位牌では七人が殉死したとされています。殉死した家臣の人数についてはさまざま伝承されていますが、里見家断絶の報せを聞いて忠義の三か月後の命日に後を追った人たちがいたのです。
配流の地倉吉
倉吉市の市街地は日本海からわずか八キロ内陸にはいった場所にあります。市街地の西には国府や国分寺がおかれていた伯耆国の中心地があり、市街地は小鴨川と国府川の合流地点と、その下流の竹田川との合流地点のあいだにつくられた打吹山城の城下町でした。忠義の神坂屋敷跡は市街地でも打吹山城跡の真下、市役所の近くにあります。
大岳院もその北側の本町通りに面して立派な山門が建っています。忠義の墓所の中央にある大きな墓は、忠義の子孫で越前鯖江藩(福井県鯖江市)の藩士になった里見義孝の墓で、その左に家老の堀江頼忠、右側の少し小さいのが里見忠義の墓です。この三基が殉死家臣の墓に囲まれて建てられています。義孝は宝暦九年(一七五九)に没した人で、その子義徳が建てたのでしょう。義徳は本織の延命寺(三芳村)にも義孝のお墓を建てています。家老の堀江頼忠より里見忠義のお墓のほうが小さいのが哀れをさそいます。忠義が没したときには墓を立派に建ててくれる人がいなかったということなのでしょう。寺宝として忠義ゆかりの品も伝えられていて、ベトナム製の交趾三彩皿や九条切交の袈裟のほか、念持仏の十一面観音像・螺鈿の槍の柄・舎利瓶などが遺品だそうです。
倉吉の中心街から東へ二キロいった竹田川沿いに下田中というところがあって、そこに勝宿祢神社という古い神社があります。忠義が元和五年に移した田中村の屋敷はこの神社の裏だといわれていて、里見井戸と呼ばれる井戸跡があります。忠義は伯耆にいるあいだに大岳院・山田八幡宮・天満宮・山長大明神などの寺社に寄進や修理をしています。元和二年に忠義が里見家の再興を願った八幡宮は、倉吉市の北、日本海に面した北条町北尾にあります。山陰本線下北条駅の南にある小高い山の上に建ち、日本海を見下ろしています。当然忠義は北条郷にあるこの八幡宮を、安房国北条郷の鶴谷八幡宮と重ね合わせて信仰したことでしょう。いまは伯耆北条八幡宮と呼ばれています。同じ年に再建した天満宮は現在天満神社とい、倉吉の中心街から西へ三キロの国府川と小鴨川にはさまれた北野という集落にあります。菅原道真を祀る天満宮の再建は、無実の罪で流人となり太宰府へ赴いた菅原道真と自分の姿を重ねていたのかもしれません。
国府川の支流北谷川をさかのぼること六キロ、谷の最奥に近い森というところに山長神社があります。山長荘の氏神で山長大明神と呼ばれていました。忠義は元和六年にこの社殿を修理したという話もあります。堀村へ移って百人扶持を与えられていた時期ですが、堀の屋敷は山をひとつ越えたところで直線で四キロほどのところにあります。
堀の地は倉吉から小鴨川をさかのぼること十五キロ。関金町にあります。山郷神社の小高い山の上にゆるい段々になった田があります。そこが里見忠義の最後の屋敷跡だといわれていますが、はっきりした伝承ではないようです。ただその田の西端に椎の大木があって、その根元に忠義に殉死した家臣六人様を祀っている六人塚という祠があります。毎年九月一日に神主家で霊を慰めているということですが、かつては殉死の日の九月十九日に祭礼が行なわれていたのだといいます。また堀の地には字一ノ部というところに「上屋敷」という場所があって、里見氏の屋敷跡と伝えているそうです。ここには若宮様が祀られていて忠義の霊を慰めるための祠だといわれています。忠義が倉吉にきたとき神坂の屋敷とともに堀村で上屋敷を与えられたと江戸時代の記録にあるのは、この場所のことなのかもしれません。
さらにこの周辺には安房守様と呼ばれる祠や五輪塔群が数ヶ所あります。もちろん里見忠義のことです。忠義の哀れな死を悼む気持ちとその恨みを恐れる気持ちが、こうした塚になったといわれます。まさにこの地で里見家は滅びたのです。
正木大膳の流浪
正木大膳亮時茂は駿府から忠義とともに倉吉へやってきましたが、大坂の陣が終わると忠義から引き離されて、家康に駿府の屋敷へ呼び戻されました。ところが家康が死ぬと元和三年になって将軍秀忠から江戸へと呼び寄せられ、桜田(港区)にあった自分の屋敷に蟄居させられたようです。江戸城中はもちろん旗本衆への出入りも許されていませんでした。主人が罪をこうむって改易などの処分をうけると、その重臣も他家へお預けになることがあります。元和三年のこの大膳の処分は、倉吉で忠義が百人扶持になったことと関連するものでしょうか。この年に忠義がはっきりと罪人扱いになったということなのでしょう。そして元和八年になって主君忠義が病死すると、幕府は忠義を預かっていた鳥取藩の池田家へ、大膳をお預け処分にすることを命じました。これは将軍秀忠が池田家に仕えるように命じたところ、大膳は将軍の陪臣になることを嫌い拒否したためだと伝えられています。大膳はまるで忠義の代わりにされるように、十一月に鳥取へと向っています。このような状況で、大膳は主君忠義の死に立ち合うことはありませんでした。
鳥取へ移った大膳は罪人としてお預けの身でしたが、毎年二千俵の合力米が生活費として渡されて、家中からもたいそう大切にされたといわれています。そして罪人のまま寛永七年(一六三〇)に没しました。大膳には家臣の上野大蔵丞や高梨半兵衛が供をしていました。妻子も一緒で、大膳が死ぬと息子の甚十郎が跡を継いでお預けの身となり、池田家から八百五石の合力米を支給されました。寛永九年に池田家が岡山に移るとそれにも従っていきました。しかし寛永十九年(一六四二)、上野大蔵丞は岡山から安房への帰国が許されています。出家して清澄寺の住職になっていた息子が幕府に願い出たものでした。
大膳の孫の代になった寛文元年(一六六一)十二月、幕府はお預け処分になっていた取り潰し大名の家臣たちを、預かっていた大名家のほうで家臣として召し抱えるように命じました。里見家をはじ
め駿河の徳川忠長・福井の松平忠直・熊本の加藤忠広・山形の最上義俊といった大大名の旧家臣が対象になっています。そして正木大膳の孫たちも、この機会に池田家へ正式に家臣として取り立てられることになりました。すでに改易から五十年近くの時を経ての解放跡でした。 |
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第五章 天下人の時代
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豊臣政権の登場 |
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館山城下町の建設 |
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徳川政権と里見氏 |
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里見家家臣団と安房の支配 |
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国替え、じつは改易 |
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第六章へ…… |
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