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「分限帳」
里見氏の家臣については、古文書などに登場する一部の家臣を除いて、戦国時代の様子はほとんどわかりません。どのような家臣たちがいて、どのように組織され、どのような体制で支配がおこなわれていたのか、わかっていないのです。しかし里見忠義の慶長年間になると、家臣たちに知行地を配分するための台帳として、「分限帳」あるいは「家中帳」とよばれるものが整備されたため、慶長年間については家臣団の全体の様子を知ることができます。里見家の家臣名簿ともいえる分限帳は慶長十一年(一六〇六)と十五年のものが知られていて、家臣団の構成をみると、「御一門衆」とよばれる里見忠義の一族と、里見家の直属の家臣とに分かれていることがわかります。
直属の家臣団は、戦時に対応した軍団としての編成で記載されています。重役として四人の家老がおり、さらに忠義の親衛隊を組織する番頭と呼ばれる上級家臣が二十六人います。番頭のうち民政にあたる奉行が六人、忠義の身辺警護にあたる歩(かち)や小姓、側近である右筆などの統率にあたる頭衆が八人、実戦部隊を指揮監督する番頭として十人衆之頭・百人衆之頭・二十人衆之頭・足軽大頭・船手頭が十二人という内訳になっています。 さらに番頭に統括される実戦部隊には、騎兵を八人から十人づつの隊で指揮する二十人衆と、足軽十人の隊を指揮する足軽小頭が三十人の計五十人からなる組頭衆、百人で一編成の隊を組む百人衆、水軍を担う船手を統率する船手小頭五人がいます。そして戦場での伝令や敵方への使者、戦功の監察などを役目とする使番十人衆、偵察や戦功調査を指揮する大目付、忠義への取次をする奏者といった戦場での個別の役割をもった役人衆が十五人という編成になっています。
平時はそれぞれが財政や民政などを別に担当していたようですが、その組織についてはわかっていません。ただ家の経営面を担当する役職として台所奉行・勘定衆・蔵衆・買物役・代官などがおり、それぞれの部署で足軽や中間などが働いていたようです。足軽が約三百人、中間・船手・馬屋之者・道具持ちなどの軽輩が千人いました。足軽や中間・船手などの軽輩は百姓で村方から採用されていました。また百人衆も与えられている知行地とは別に耕作地をもっている人々で、古くから里見家に仕えていた土豪だったようです。
一門はもとより家老・番頭・組頭・役人衆などは里見氏の領地のなかで知行地とよばれる所領を与えられていました。その合計が慶長十五年の分限帳で五万三千三百石余りで、寺社領を引いた残り六万五千三百石余りが里見家の蔵へ入る分です。しかしその中から、知行地でなく給米として渡される家臣がおり、足軽・中間の分まで含めると二万俵余。実質里見家へは四万五千三百石が収まったようです。
里見家の所領は安房国が九万石、鹿島郡が三万石で十二万石ありましたが、慶長十一年には鹿島郡でも家臣に知行地が与えられていました。鹿島領三万石のうち三千六百石余りがその対象で、残りが直轄地でしたが、慶長十五年(一六一〇)になると鹿島郡はすべて蔵入の直轄地となって、家臣には安房で知行地が与えられるようになっています。ですから慶長十一年の分限帳には記載がなく、慶長十五年の分限帳ではじめて記載されている家臣のうち、家督交替したものと蔵米衆の一部を除けば、慶長十一年のときには鹿島郡に知行地をもっていたと考えることができます。
忠義の御一門
「御一門衆」は忠義の叔父で、八千石というとびぬけて大きな知行地をもつ正木大膳亮時茂(二代目)を筆頭に、里見家から養子として各地の正木家に送り込まれた人々が、里見家中では特別の家柄として存在していたようです。百首の正木淡路守家を継いだ正木源七郎義断や、勝山の正木安芸守家を継いだ正木久太郎忠勝などは父義康の弟たちで、ほかにも正木金太郎義俊や多々良氏の後裔薦野家を継いだ薦野甚五郎頼俊は祖父義頼の弟たちです。みな千五百から三千石の知行地をもっており、領国内で独自性の強かった有力な家を継いだ里見一族が、忠義の御一門として権威をもっていたのでしょう。
とくに二代目正木時茂は大身で、上総小田喜から安房へ移ってきたときに、それまでの家臣を引き続き抱えたものが多かったと思われ、この慶長年間になっても独自の家臣が多くいたようです。慶長十九年(一六一四)に時茂のもとをはなれて忠義の家臣になった石井宗太夫もそうしたひとりです。また天正年間に幼少の二代目時茂を補佐して小田喜城の城代を勤めた、正木石見守頼房も時茂の家臣のままだったようで、慶長十三年(一六〇八)に正木時茂の知行地真浦村(和田町)から、さらに五十石の知行地が頼房に分け与えられています。頼房は天正十八年(一五九〇)に安房へ戻ったとき、小田喜正木家の旧領長狭郡貝渚村(鴨川市)に知行地を与えられたことがあります。ここは小田喜領の重要な湊町磯村に隣接する土地です。貝渚の心巌寺に妻にした里見義弘の長女と頼房の墓があります。
このほかの「御一門衆」としては忠義の祖母である「御隠居様(三千石)」、義康の正室・側室と思われる「御前様(八百石)」「藤井美濃御前様(七百石)」などの親族や、こうした女性たちの家老や付人など付属する人びとも御一門衆に加えられていました。御一門衆ではないものの、奥につかえる「つぼね(局)」たちにも十石から六十石の知行地が与えられています。また本織村(三芳村)で三十石を与えられている「明石姫君」あるいは「明石之御娘」と呼ばれる特別な女性もいました。里見嫡流の民部少輔家ゆかりの人かとも考えられます。
さらに里見氏と血縁はないものの御一門衆に加えられている人物もいました。もと勝浦城主の正木頼忠です。頼忠は天正十八年に勝浦が徳川家に没収されて安房へ移ると、長狭郡成川(鴨川市)に屋敷を構えて隠居し、環斎と号しました。頼忠の娘のお万(養珠院)が徳川家康の側室になっていたことから、里見家でも特殊な立場にあったようです。お万は慶長七年(一六〇二)に和歌山藩の祖徳川頼宣を産み、翌年水戸藩の祖徳川頼房を産んでいます。お万の兄為春は慶長三年から家康に仕えるようになっていたと伝え、頼宣が産まれると家老として付属し、三浦長門守と称して以後代々が和歌山藩の家老を勤めています。頼忠は慶長十七年(一六一二)に家康から駿府に召しだされて、家康に仕えるように求められたことがありました。このときは老身ゆえと固辞していますが、頼宣・頼房生母の父として、このような家康との特別な関係をもつことができる人物だったことから、里見家からは親族としての待遇をうけていたようです。
里見家の安房の支配
こうした家臣たちを通してどのような支配が行なわれていたのかはわかっていませんが、寺社奉行・町奉行・地方奉行が民政を担当し、台所奉行やその配下の勘定衆・蔵衆・代官などが財務担当として支配にかかわったと思われます。
館山の城下町支配に関しては町奉行の担当と思われますが、奉行として分限帳に記載されている角田丹右衛門・黒川権右衛門はあまり史料に現れません。分限帳と同じ時期の慶長十二年(一六〇七)から十七年にかけては、むしろ二十人衆として記載される正木左一右衛門と百人衆の勝長門守が、城下の夜回りに関する指示を出したり、上町衆からの訴えを聞いたり、商品の取引価格の公示を忠義から命じられるなど、城下町支配の責任者の立場にいたことがわかります。戦時には組頭衆や百人衆に組織される家臣が、平時は城下町支配にあたっていたわけです。
また財政に関しては台所奉行が責任者ではないかと思われます。分限帳には横小路将監・糟谷源三郎の名があり、いわゆる勘定奉行に相当するものでしょう。配下の勘定衆・蔵衆・代官を勘定頭と代官頭がそれぞれ統括しています。分限帳にはそれぞれの役人の名が記されていますが、慶長十九年に新井浦の塩年貢を受け取っている足軽小頭の請西善右衛門も、台所奉行の配下になっているのでしょう。また年貢の徴収ばかりでなく、納められた蔵米から国内の商人中へ貸し付けしたり、寺社の造営用に蔵米を給付するのもこの部署だと思われます。慶長年間に岩崎与次右衛門ら城下商人をとおして、国中の商人に貸し付けた蔵米の返金を受けている細野彦兵衛は、分限帳には記載されていないものの、この部署の担当役人なのでしょう。
また里見家の直轄領の支配を担当する代官も、分限帳に代官として記載される人々ばかりではなかったようです。百人衆の石田新兵衛が慶長十五年に横尾村・平塚村(鴨川市)・大井五反目村・大井本郷村(丸山町)の四か村を代官所として預かっていたり、慶長二年に里見義康から内浦村の百姓が迷惑しないように取り沙汰するよう命じられた百人衆の武石勝左衛門も、代官として内浦村を預かったのだと思われます。直轄領はこうした代官が支配を担当し、各村に政所という領主の役場があり、村方の役人がいて村の支配がおこなわれていたようです。
地方奉行の役割はよくわかりませんが、分限帳には板倉牛洗斎と堀江四郎左衛門の名があります。板倉牛洗斎昌察は江戸時代の和泉村(鴨川市)の人々には、「一国の郡山奉行」として記憶された人物です。和泉村ということろは豊富な山林資源があるところで、山林の管理をする山守が置かれており、里見家御用の御林だったと考えられるところです。慶長頃には竹田権兵衛が百石船二艚を造るのに和泉の山から船板を調達しているのも里見家の御用だと思われます。慶長十八年(一六一三)に安房神社造営の材木を忠義が寄進するにあたって、長狭の金山谷(鴨川市)が調達場所に指定されました。牛洗斎がその命をうけて隣接する和泉村の治部という山守に指示をすると、治部は材木を寄進し、以後牛洗斎から扶持米十俵を受けるようになっています。このような山の管理というのは地方奉行の職務なのかもしれません。
寺社奉行は分限帳では印東采女佑と岡本兵部少輔とあります。職務としては寺社に関することでしょうが、事例としては慶長十一年に深名村常光寺への寺領寄進に際し、深名村に所領をもつ家臣に対して対象になる田地 山を渡すように指示したものがあります。印東采女佑とともに大家老の堀江能登守が連名で出しているのは、家臣の所領にもかかわることだからでしょうか。また妙本寺の不入願いについて地方奉行の板倉牛洗斎とともに忠義に取次いでいるのも職務なのでしょう。
また地方奉行の堀江四郎左衛門や十人衆頭の御子神大蔵丞が、慶長十一年の忠義の代替りにあたって家臣や寺社に知行地の充行いがおこなわれたときに、所領の明細を書いた目録を出しています。御子神大蔵丞はその年の畑村の検地役人も勤めていて、分限帳記載の役職とは別に平時の役割があったことがわかります。里見氏の検地役人としてはそのほかに、印東主膳・印東河内守・和田駿河守が知られます。印東河内守は二十人衆で、慶長十八年には国内すべての村を対象に安房神社再建の勧進を求めるといった役割を果たしています。 |
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第五章 天下人の時代
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豊臣政権の登場 |
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館山城下町の建設 |
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徳川政権と里見氏 |
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里見家家臣団と安房の支配 |
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国替え、じつは改易 |
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第六章へ…… |
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