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上杉討伐
豊臣秀吉は二度目の朝鮮への出陣がおこなわれていた最中の、慶長三年(一五九八)八月十八日に没しました。秀吉が死んだことによって、豊臣政権を支える役割をもっていた徳川家康ら五大老と石田三成ら秀吉子飼いの五奉行たちの中での対立が、一挙に表面化してしまいます。家康は天下人をめざして秀吉の遺言を無視するようになり、五大老の権限もひとりで振るうようになっていきました。家康に対抗する石田三成は、越後から会津(福島県)に移って百二十万石の大大名になっていた五大老のひとり上杉景勝と結んで、江戸の家康を東西から軍事的に威圧する態勢をつくりました。これには三成と親しかった常陸の佐竹義宣も加わっています。
これ以前から上杉氏も佐竹氏も領土問題をかかえていて、秀吉の有利な裁定を受けるために三成の取次を頼みにしていました。一方、上杉氏の領土問題の相手方だった山形の最上氏や、佐竹氏と対立していた伊達氏などは浅野長政や徳川家康とつながっていました。こうした人脈が三成と家康の対立にむすびついていくことになります。
慶長五年(一六〇〇)七月、家康は上杉討伐のために出陣しました。それを機にして三成は家康方の伏見城を攻撃して家康討伐の挙兵をします。下野国小山(栃木県小山市)で三成挙兵を聞いた家康は、江戸へもどって態勢を立て直し、一転して関が原へと向かったのです。九月に天下分け目の戦いが関ケ原で繰り広げられたわけですが、一方会津の上杉氏に対しては、家康の次男結城秀康を下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)へ向かわせていました。天下の行方を決める関が原合戦の緊張は、関東でも同じように起こっていたのです。そして上杉景勝を牽制するために向かった軍勢のなかには、里見義康もいたのです。
里見義康は三成に組した増田長盛との人脈より、徳川家との関係を選びました。安房から軍勢を引き連れてきた義康は、七月二十三日に下総小金(松戸市)に到着しています。すでに下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)に向かっていた徳川秀忠の本隊に合流するため、そのあとを追っていたのです。石田三成の挙兵後は秀兄の結城秀康が主将となり、伊達政宗・最上忠に代わって義光・越後の堀秀治・宇都宮の蒲生秀行・下野の那須一族など、北関東・東北で上杉領を囲む大名らとともに、上杉勢との対陣に加わりました。
関が原合戦
九月になって家康が三成との直接対決のために上方へ向かうと、義康は中仙道から美濃へ進軍していた秀忠のもとへ使者を送りました。義康も東西決戦の場へ行きたかったのでしょう、里見勢を秀忠軍に従わせたいことを申し出たのです。しかし、対上杉戦線の重要性を諭され、宇都宮に在陣するようにと命じられています。
九月十五日の関が原合戦で石田方が敗れて大勢が決まると、十月一日、上杉勢は最上氏などとの戦をやめて軍を引きました。天下の趨勢がきまると義康は、家康のもとへ戦勝祝いの使者を送りました。十月二十四日には家康から宇都宮での長い在陣の労をねぎらう書状が、義康のもとへ届いています。この時はまだ宇都宮にいたようですが、まもなく宇都宮の秀康たちの陣も引き上げたことでしょう。
石田三成・小西行長など西軍の中心人物は十月一日に処刑され、石田方の五奉行のひとり長束正家はその前日に自害、義康と親しかった増田長盛は二日に領地を没収されて、高野山に追放されました。長盛は高野山にいるあいだは西門院に滞留し、その取り扱いについて義康も心配していた様子が伝えられています。
翌年八月、義康は関ケ原の論功行賞に際して、上杉景勝を牽制していた戦功として常陸国鹿島郡で三
万石を恩賞として与えられました。その常陸を中心に五十四万石を領していた佐竹氏は、石田方寄りの
対応をしたため、慶長七年に秋田へ転封になってしまいました。その結果十二万石の里見義康が関東最
大のの外様大名となったのです。
板鼻藩主里見忠重
関ケ原の論功行賞にあたって、義康の弟忠重も一万石を与えられて大名になりました。忠重は里見讃岐守といい、慶長六年(一六〇一)の正月に将軍徳川秀忠から名前に「忠」の一字を与えられて忠重と名乗るようになったのです。一万石の恩賞を与えられたのもこの頃のようです。その領地は、里見氏のふるさと上野国里見郷に隣接する板鼻(群馬県安中市)でした。東山道の宿場で河川交通の便もある交通の要衝だった土地で、かつて鎌倉時代には新田一族の拠点のひとつだったところです。義康の弟里見忠重は、先祖ゆかりの地を手に入れたのでした。宿場の北にある丘陵が板鼻城跡で、その東端が陣屋跡といわれています。
慶長八年(一六〇三)二月、徳川家康が将軍になりました。三月にはそのお礼に上洛して参内していますが、その行列のなかに里見忠重も加わりました。室町将軍の古式どおりの行列が組まれ、井伊直勝・本多忠勝・松平忠政・本多正純など徳川譜代の大名たちが居並ぶ八番の騎馬を勤めています。忠重は外様でありながら譜代の重臣たちと同等の扱いをうけているということです。
しかも同じ騎馬のなかにいた松平飛騨守忠政は、徳川家康の長女亀姫の子ですが、忠政の妻は里見義康の妹でした。忠重とも兄妹(姉弟)ということです。つまり忠重は家康の外孫と義理の兄弟になっていたのです。忠重が大名となり、しかも譜代扱いをうけているのは、そうした家康の周囲にいる人たちの引き立てというのがあったのかもしれません。さらに慶長九年十二月に隣接する高崎(群馬県高崎市)に酒井家次が五万石で移封してくると、その娘を妻に迎えています。酒井氏は徳川家とは古い親戚で、家老ともいえる家柄でした。こうして徳川の世の中での地歩を固めていったのです。
しかし順調にみえた忠重の歩みは突然の改易で止められました。慶長十八年(一六一三)十月に「勤務怠るにより改易」を言い渡されたのです。そして義父酒井家次のもとへ預けられることになりました。伝えられる話に、忠重が安房の里見本家の乗っ取りを企て、それに本家の家臣が異をとなえて幕府に訴えたことが原因だとされています。安房の里見家では、兄義康が慶長八年十一月に三十一歳で没してしまったため、わずか十歳の梅鶴丸(忠義)が家督を相続していました。そのため叔父にあたる忠重が後見人になっていたともいわれています。里見家中に占めた忠重の役割はたしかに大きかったのかもしれません。義康存命の時から里見家で大きな権威をもっていたという義康の母が、慶長十五年に没してしまったことも、忠重の発言力を大きくしていたかもしれません。勤務怠慢という公式の改易理由ばかりが原因とはいえないようなのです。そして安房の里見本家が改易になるのがこの事件からわずか一年後のことですから、ふたつの改易にはつながりがあったのかもしれません。
幼主忠義
慶長八年に義康が三十一歳で病死すると、里見家は一門衆の頭正木弥九郎時茂や家老職の堀江能登守頼忠・板倉牛洗斎昌察といった一族・重臣が中心になって、幼い梅鶴丸(忠義)を補佐する体制で政務にあたっていたようです。彼らには、大阪に豊臣家が健在で存続し、徳川の政権がまだ安定していないこの時期に、関東で唯一残った外様の家を守っていくという大きな責務が与えられたのです。
慶長十一年(一六〇六)七月三日、梅鶴丸の名前で家臣と安房・鹿島の領内の寺社に対して、一斉に所領の充行状が出されました。元服をひかえて、里見家の家督を相続し代替りしたことを示したのでしょう。多田良村(富浦町)や畑村(館山市)など一部の地域では、前年からこの年にかけて検地のやり直しもしています。
十三歳の梅鶴丸はその年の十一月十五日、江戸に出て将軍秀忠の御前で元服の式を行いました。将軍から「忠」の一字が与えられて忠義と名付けられ、父義康と同じ従四位下安房守となります。それは将軍秀忠を烏帽子親として元服し、主従関係を結んだということでした。そして十二月になると徳川家の推挙でやはり父と同じく侍従に任じられたのです。徳川家の家臣として他の大名と同じように、江戸城の建設工事や京都の御所の造営負担を分担し、将軍家への三季の賀儀(端午・重陽・歳暮)に際して進物を欠かさず献上するという義務と儀礼の世界へ十三歳の少年は入っていったのです。
大久保家との縁組
義康は関が原合戦以前から家康に従う立場になっていたようで、正月のあいさつとして家康に太刀や馬を贈り、重陽の祝いには小袖を贈っていました。そのときに家康との取次をしていたのが大久保忠隣であり本多正純でした。いずれも家康の側近として権力をもっていた人物で、秀忠が慶長十年に将軍になってからは、大久保忠隣は秀忠の側近として幕府の重役になっています。そして家康の側近として駿府で大きな権限をもっていた本多正純とのあいだで権力闘争をおこすことになるのです。
徳川家のなかで大きな力をもつとはいいながら、対立を深めていく実力者のうちの一方の当事者である大久保忠隣に、里見家は近づきました。慶長十六年(一六一一)、里見忠義は小田原(神奈川県小田原市)城主大久保忠隣の孫娘を妻に迎えたのです。父は忠隣の長男で世間からの人望もあった大久保忠常、母は家康の長女亀姫の子、つまり家康の孫娘にあたる於仙殿と呼ばれる人です。
里見家ではそれより先に里見義康の妹(光性院)が奥平信昌の三男松平忠政に嫁いでいました。於仙殿はこの忠政の妹なのです。里見家の重臣たちは里見家と縁のできた忠政の姪であり、かつ幕府重臣大久
保忠隣の孫娘を迎えることで、家康の長女亀姫を中心とした人脈のなかに深く入りこむことに成功したのでした。
また後年里見家が改易になってからのことですが、松平忠政の子忠隆は酒井家次の末娘を妻にしているので、忠義の叔父で板鼻藩主の里見忠重は、甥の松平忠隆と義理の兄弟としてつながることにもなるのです。関が原合戦以後多くの外様大名が徳川家と婚姻によって姻戚になっていくなか、里見家の重臣たちも関東に唯一残った外様の家を守るために、徳川家の一族や幕府の重臣大久保家・酒井家などと婚姻を通じてつながり、そして人脈を広げていったのです。
大久保家の不安
しかしその直後から、本多正信・正純父子と大久保忠隣の対立は、権力闘争へと発展していくことになりました。両者の対立は慶長五年の関が原合戦の際、ともに秀忠に従って信州上田(長野県上田市)の真田氏を攻撃したときにさかのぼるといいます。難航した上田攻めで忠隣の長男忠常の家臣が抜けがけの働きをしたことを正信が処罰したのがきっかけとなりました。その年、家康の後継者について重臣たちが家康から諮問をうけたときにも、秀忠を推す忠隣と秀康を推す正信とで対立しています。また忠義の婚儀があった慶長十六年に忠常が病死したとき、忠常を慕う多くの武士が小田原へ駆けつけたのですが、正信は常々その人望と秀忠からの信任をねたんでいて、上司への届出をしないで弔問にいった森川正重・日下部正冬などの忠常と親しい 秀忠側近を処分したともいいます。
家康の側近として信任をうける官僚の本多父子は、武功派の徳川譜代家臣たちの反発もうけていて、大久保忠隣は彼らの不満を代表するようにもなっていました。その対立が抗争として本格化したのが慶長十七年(一六一二)の岡本大八事件からでした。正純の家臣岡本大八が贈収賄事件をおこして処刑されたのですが、その採決を行なったのが忠隣の庇護をうけて権力者に成長してきた大久保長安でした。その翌年長安が病死すると、今度は長安生前の不正蓄財が摘発されて、長安の一族縁者が数多く処罰されました。長安の長男藤十郎の舅で信濃国深志(長野県松本市)の石川康長、その弟石川康勝なども連座で改易になっています。
大久保忠隣との縁組も、里見家にとって決して安泰とばかりはいえず、権力者との関係は危険をともなうものでもあったのです。 |
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第五章 天下人の時代
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豊臣政権の登場 |
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館山城下町の建設 |
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徳川政権と里見氏 |
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里見家家臣団と安房の支配 |
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国替え、じつは改易 |
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第六章へ…… |
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