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岡本城から館山城へ
天下人に仕える身となった義康は、この太閤検地をとおして自分の力で所領を広げることができた戦国大名の時代から、所領は天下人から与えられて保障され、所領の増減も天下人の意志次第という、近世大名の時代へと変わっていく場面に直面することになりました。そしてそれは里見氏の居城も代えることになったのです。義康は父義頼以来、岡本城(富浦町)を安房・上総を支配する拠点にしてきました。しかし天正十九年(一五九一)の六月から十一月のあいだに、館山城(館山市)へと居城を移したのです。それは軍事拠点としての性格が強い戦国の城から、政治経済の拠点としての性格のほうが強い近世の城に移ったということでもありました。
岡本城は里見義豊の時代から安房の水軍の拠点として利用されていました。そこへ義尭・義弘の時代に、里見義頼が安房の押さえとして在城し、家督を相続したあとも居城として利用をつづけました。北条氏の勢力と直接対峙する久留里や佐貫に義尭・義弘が在城して、上総のほぼ最前線を拠点としていたのと同じように、安房でも東京湾を挟んで北条氏と対峙する海辺の最前線に、義頼が拠点を構えていたのです。北条氏の水軍が安房へ攻撃をかけてくれば、岡本城から迎撃の船が出動するという里見水軍の根拠地でした。
岡本城跡は豊岡海岸に突き出した丘陵で、すぐ麓には小さな岬状の丘陵に囲われた湊をもっている、まさに海の城といえるものです。極端に大きな城というわけでもなく、同じように水軍の拠点になっていた正木氏の金谷城や百首城などと同じ程度の規模でした。南側の中段に四角いスペースが残されているので、そこに居館があったようです。またそのすぐ下にある日蓮宗の全昌寺は、家臣たちの供養と祈願のための寺だったと伝えられているように、この居館の下に家臣たちの屋敷があったことでしょう。そしてその南に田宿・新宿の地名があって、小規模な城下町もつくられていたようです。
軍事力で周辺の勢力から土地を奪い、あるいは海上を航行する商船に脅しをかけて金を取るなど、奪うことと外敵から身を守ることで力を維持した戦国の時代には、岡本城が拠点でもよかったのでしょうが、秀吉によって大名独自の侵略が否定されて世上が安定すると、自らの経済力を強めなければ領国の支配を維持できない時代になりました。そうなるとこの岡本城で経済を活性化するには湊が小さく、流通のターミナルとするには充分とはいえなかったのです。
館山の立地
その点館山城近くには大きな湊がありました。館山湾内にある高の島の東南海域が、水深が深くしかも島が西風を防いでくれるので、平安時代から湊として使われていたのです。この高の島湊にはすでに義頼が商人岩崎与次右衛門を送り込んで、流通の基地として注目し整備をはじめていました。湊ばかりではなく、館山城の周囲に目を向けてみると、さまざまな要素をもった土地であることがわかります。
交通の面では高の島湊という天然の良港に加え、隣接する北条郷は南の白浜や北の岡本、内陸の府中・平久里、外房の長狭など各方面への陸上交通路が集中していて、海上交通と陸上交通をつなぐ大きなターミナルになる場所でした。また軍事面でも館山城が独立丘の天然の要害だったのに加えて、東の汐入川沿いには真倉・南条という穀倉地帯が確保されていました。さらに里見氏の権威を象徴する儀式を行なう場として、里見氏の氏神でもある安房国総社の鶴谷八幡宮が隣接の北条郷にあるのです。館山湾と館山平野を見とおすこともできるこの館山城は、安房国を支配する拠点として多くの条件を備えていたのです。
義康が館山城へ移転することになった直接のきっかけは、天正十八年に上総の領地を没収されたことです。上総から安房へ引き上げてくる家臣たちをどこへ収容するのか、緊急に考えなければならない問題があったのです。義康は父義頼が注目した高の島湊とセットになる、この館山城を拡大することにしました。それまでの館山城は、城山と呼ばれる独立丘の部分だけを利用していたのですが、東の汐入川から西の見留川に至る低地の部分も城としての整備をすすめていくことにしたのです。
館山城跡
館山城の中心は現在の城山の部分で、当時は標高七十四メートルありました。太平洋戦争中に高射砲を設置するために尖った山頂が削られて、現在は六十五メートル。当時の山頂は現在のような広場ではなかったのです。広い曲輪になっているのは現在茶室があるところで、千畳敷と呼ばれています。山裾はすべて崖を垂直に切り立てて、石垣の代わりの城壁にしています。切岸といって、城山の南にある熊野山もふくめて、随所で当時の姿がそのまま見られます。
義康の御殿は城山の南斜面につくられていたようで、それらしき建物の跡が発掘されました。家臣の屋敷は城山の南側に西から東にかけてつくられたらしく、南東の麓が重臣の屋敷地だったといわれています。今も重臣印東采女や家老山本清七、一門衆の頭正木大膳亮の屋敷跡などの伝承が残されています。また南西側に根古屋と呼ばれる戦国時代からの家臣の居住区域があり、その後城山の東方にも根小屋区域がつくられています。国道沿いの字宇和宿・羽鳥・平田などは家臣が多く住んでいた地域だと伝えられています。また重臣屋敷の外側には慈恩院・妙音院・泉慶院などの里見家ゆかりの寺院が集中して配置されています。
それらの外側は西に沼地と見留川、東に汐入川があって、これを大きな防禦線にしています。城山と重臣屋敷地はさらに人工の堀が切り開かれて守られていました。その遺構を残しているのが城山の東側にある御霊山と天王山で、山の中段外側に山を取り巻くように堀が残されています。御霊山の堀の外側にはさらに切岸が設けられていて、厳重な防禦施設が残されているところです。この堀はかつて南は泉慶院の池まで続き、北は本蓮寺裏まで伸びて西へ向かって折れ、城山公園の駐車場まで続いていたようです。鹿島堀の名で呼ばれていて、里見氏が慶長六年(一六〇一)に常陸国鹿島に領地をもらってからつくられたといわれています。
そしてこの堀の北側の海辺に商人・職人を集めた城下町がつくられたのです。つまり館山城とは現在の城山だけではなく、周辺の低地までを含んだ広大な範囲なのです(口絵写真参照)。じつは館山城は義康が居城にする以前からありました。父義頼の時代にも番手として警備にあたるために、上野源八という家臣が館山へ派遣されたことがあります。岡本城の支城として館山城がつかわれていたのです。この時期の館山城が現在の城山です。つまり館山城というのは、戦国時代には城山の部分だけをつかっていましたが、戦さの時代が終わって天下人の時代になると、経済力をつけるために城下への居住者が増え、城としての構えも周辺にまで広がっていったということです。
城下町建設
館山の城下町は真倉郷のうちの新井町と楠見町という浜方の土地を一部割いて、上町・中町・下町という町割りをしたのがはじまりだと伝えられています。
当時の地形は現在とずいぶん違っていて、海岸線は現在よりも三百から四百メートルほど内陸側にあり、町場のすぐ下が浜になっていました。下町の南側では汐入川が西に広がって菱沼(現館山病院周辺)となり、ここが河岸のようになっていたかもしれません。下町からさらに汐入川を渡って長須賀に入ると、字塩焚・八石三斗あたりが汐入川と境川の河口に挟まれた中洲状になり、塩田になっていたと思われます。字八石三斗は元禄の地震まで北条村の塩場として使われていました。そして長須賀の上の通りを表町・裏町といい、そこから北へ新宿、北条の南町・仲町・北町と町場がつながっていました。
商人頭の中山彦五郎や岩崎与次右衛門らが、こうした町場に立ちはじめた市を差配していたと思われます。慶長六年(一六〇一)になると、里見義康が城下町の育成政策を打ち出しました。それは新井町に立つようになった市以外での取引を禁止するというものでした。安房国中の商人を対象に、国内の他の場所へもっていって売ることを禁止して、商品をすべて城下町に集め、城下町だけで取引をさせるというものでした。もちろん他国からくる商船が新井町以外に入港することも禁止し、波左間(館山市)から先の外房では商人に宿を貸すことさえも禁止しています。こうなると商人たちは城下へ集まらざるを得ないわけです。
また相物と呼ばれる塩魚や干魚については、正当な取引ができるようにとくに保護をしたようで、武家奉公人が強引な押買いをしないことを保障しています。これは保存のきく魚類を他領への輸出品として力を入れた、保護商品にしていたのかもしれません。とにかく物資も人も城下に集め、安全で正当な取引を保障して、町を大きくしていこうという政策がとられたのでしょう。これが最初の新井町を中心とした城下町の保護育成政策でした。この新井町で市の立っていた場所が町割りされて、上町・中町・下町となったのだと思われます。このころから本格的な経済都市をめざした城下町づくりがはじまったといえます。そして城下町建設の中心的な役割をはたしていくのが、先の岩崎与次右衛門であり石井丹右衛門・松本豊右衛門などの商人たちでした。
城下町の運営
城下町の保護政策は次第に強化されていって、慶長十一年(一六〇六)になると城下商人に対して諸税の免除や規制緩和処置が行なわれています。そのひとつは商船の入港税の免除で、国中に対して一律にかけられる臨時課税を除いて、日常的に城下の湊へ入る船からは徴収しないというものです。湊の利用頻度を増やして商品を常時確保するということではないでしょうか。この頃には商人たちも定期市を開くのではなく、常設の店舗を構えるようになっていたことでしょう。また国内産業の保護のために他領との取引を禁止していた商品について、輸出入の制限を緩和する処置もとられました。商取引を活性化する政策が打ち出されていったわけです。そうした緩和処置のかわりに、城下商人たちの責任として道路の整地や盛砂もふくめた清掃、つまり町の衛生管理を命じられています。
慶長六年の法令で商人を城下に集住させた結果、この年にはもう商人たちの居住範囲は、新井町から西は楠見町、東は長須賀町そして北条町へと広がっていました。わずか五年のあいだで城下町が拡大していたのです。慶長十五年になると岩崎与次右衛門が、町中肝煎という役職に任命されます。城下町の町方の総責任者です。与次右衛門はそれ以前から連雀の司という商人の取締役になっており、城下商人や行商人の取締り、市立ての実施、城下警備などを任されていたはずです。この任命は、商人を代表する立場から城下町の住民を代表する立場になったということであり、町全体にまとまりができてきたということではないでしょうか。
里見家で城下町運営を担当した役人としては、勝長門守行遠と正木左一右衛門頼定が知られます。ともに組頭衆という二百石から二百五十石クラスの中級家臣です。細野彦兵衛も経済官僚として知られ、ふたりと同じ組頭衆の細野修理と関連する人物と思われます。こうした役人たちの指導のもとで、城下商人たちが城下町の運営にあたり、急速に館山の城下町は成長していったのではないでしょうか。しかし城下町建設は里見家の改易によって中途で潰えてしまったのでした。 |
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第五章 天下人の時代
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豊臣政権の登場 |
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館山城下町の建設 |
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徳川政権と里見氏 |
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里見家家臣団と安房の支配 |
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国替え、じつは改易 |
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第六章へ…… |
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