房総の湊と流通
 中世の東京湾には関西・東海方面から太平洋を渡って、数多くの商船がやってきていました。東京湾には品川(品川区)や神奈川(横浜市)・金沢(横浜市)を中心に港湾都市がいくつもあって、そうした湊で交易をして、さらに江戸川をさかのぼって利根川流域にも数多くある湊までいって交易をおこなっていました。常陸と下総のあいだの利根川沿いにも交易で栄えた町がたくさんありました。海と川を利用した水上交通が、当時の流通の大動脈として使われたのです。そして関東のそれぞれの湊や津にはそこを拠点にして交易をする商人が活動していました。 もちろん`頼から多くの土地が与えられています。おそらく最終段階で義頼に下って反乱鎮圧に大きな役割を果たしたのでしょう。その後小田喜近郊の憲時領を支配する役割をもったようです。こうして義頼が憲時の旧家臣を配下に取り込み、憲時が支配していた土地にも義頼の家臣をおくようになりました。
 また西畑郷と三俣郷(大多喜町)が、村どうしで野畠をめぐっておこした争論にも義頼が裁決を下すようになっています。こうして義頼が直接支配することで安房・上総の領国経営がおこなわれることになりました。しかし義頼が直接統治をすることスことが知られています。商人たちは、領主どうしが対立する地域へも行って自由に交易をするわけですが、この時代は、自分たちの安全が必ず保障されているわけではありませんでした。

東京湾の危機管理
 東京湾を行き来する船は海賊の掠奪にあうことがあったのです。とくに里見氏は北条方の湊に出入りする商船を連れ去ってしまうような海賊行為を日常的に行なっていたようですし、三浦半島や本牧(横浜市)方面までいって放火や掠奪もしていました。また逆に北条氏も西上総の里見氏領に同じことをしていました。商船の保護のために水軍が監視などもしてくれたようですが、商人にしても沿岸村々の住人にしても、自衛の手段をとらなければならなかったのです。
 その対策として、商人の場合は海上での安全を保障してもらうために通行許可証を要求することがありました。元亀三年(一五七二)十二月に里見義弘が、伊勢(三重県)からきている御師の龍大夫に上総・下総までの安全を保障する海上の通行許可証を出していますし、天正三年(一五七五)十二月には武州金沢(横浜市)の商人山口越後守に、東京湾入口の安房海域を押さえる里見義頼が、海上での安全を保障しています。それは海賊行為をさせないという保障であり、どちらも商人からの要求に応えて出したものでした。おそらく里見氏からはその保障の見返りが要求されていたでしょう。里見氏がこのように海上の安全を保障するのは、安房国が本来東京湾にもっていた権限と関係することだと考えられています。里見氏はそれを引き継ぐことで、東京湾の制海権を北条氏よりも強く握っていたのではないかとされています。
 また里見方の海賊から掠奪をうける村々では、里見氏に年貢の半分を差し出すことで安全を保障されました。これを半手といいますが、そのためには北条氏からそのことを承認してもらわなければなりませんでした。つまり北条氏と里見氏にそれぞれ半分づつ年貢を差し出していた地域があったのです。天正四年(一五七六)七月に本牧郷(横浜市)が、里見氏へ半手を差し出すこと要求して北条氏から承認されていますが、そのとき北条氏は本牧郷の住人に本牧と木更津間での輸送業務を命じています。それが要求に対する見返りでした。
 天正四年頃には里見氏領の西上総沿岸でも北条氏に半手を出しているところがありました。天神山(富津市)で半手の収納を担当をしていたのは商人の野中氏でした。野中氏は里見氏の領国を基盤に鋳物の生産を行いながら、北条氏領国の神奈川・金沢の湊での商売を保障され、大風などのときに他の湊へ船を付けることも許可されていました。東京湾ではこうした戦乱のなかでも、それぞれの領主のもとで商人たちの活動が活発におこなわれていたのです。

里見氏の流通政策
 里見氏は天正五年(一五七七)に北条氏と和睦してからは、商人に対して海上航行の安全を保障するのではなく、商人の交易活動を優遇するようになっていきました。領国での流通政策に積極的に取り組みだしたということなのでしょう。天正七年五月には小田喜の正木憲時が、金沢の商人山口越後守に湊の利用や商売にともなう税を免除をしています。その頃木更津(木更津市)を支配下においていたらしいので、その周辺の湊や太平洋岸の長狭や一宮などの支配領域の湊でのことでしょう。九月になると梅王丸も同じ山口氏に領分の西上総での湊利用と税免除を承認するのです。
 天正の内乱を収拾した義頼もそうでした。各方面と平和外交を繰り広げた義頼ですが、とりわけ東京湾の安全性を確保しておくためにも、北条氏との和平を優先的に考えていたようです。東京湾が安全になるということは、お互いの勢力下にある海賊がおこなっていた掠奪行為から商船を守ることになり、交易の安全が保障されるということでした。そうなると領国内での交易を要請をする他国の商人も増えていったことでしょう。天正九年(一五八一)六月に下総布川(茨城県利根町)の商人新井兵衛三郎から交易の申請をうけた義頼は、里見領国内での営業活動を認めていますが、利根川流域から安房まで交易にくる兵衛三郎もそうした商人のひとりだったのではないでしょうか。
 ところで、義頼は内乱を克服して里見家の家督を引き継いでも、義尭や義弘のように上総へ移って領国の支配をすることはなく、安房の岡本城に在城し続けました。北条氏と抗争をする心配がなくなって、おそらく安房にいても安定した上総支配は可能だったのかもしれません。北条氏と和睦して東京湾の海上交通路の安全性が確保され、内乱も収拾して湊の管理も権限が分散しなくなると、政治的にも安定していったのではないでしょうか。義頼はこの時期、上総よりもむしろ安房での本格的な拠点づくりをはじめたようなのです。それは経済性を重視した拠点選びといえるものでした。
 義頼が安房での流通拠点として選んだのは館山城(館山市)でした。館山城がかかえる高の島湊は平安時代から利用されていた湊で、館山湾のなかでも水深があり西風を防げる規模の大きな良港でした。天然の要害である館山城は、軍事的な面だけでなく経済的にも拠点となる要素をもっていたのです。そこで義頼は、天正十二年(一五八四)に商人の岩崎与次右衛門に館山城の西麓にある沼之郷(館山市)で屋敷を与えました。館山を拠点にした経済活動をおこなわせる目的があったのではないでしょうか。これが後の館山城移転に結びついていくように思われます。

第四章 関東のなかの房総

里見氏の上総進出
戦略のなかの里見氏
天正の内乱
流通と領国政策
第五章へ……