房越同盟
 永禄三年(一五六〇)五月、北条氏康は里見義尭が拠点にする久留里城攻撃を再開し、小櫃川を挟んだ向かいに新たに城を取り立てました。義尭は北条氏によって繰り返されるこうした危機的な状況を打開するため、小田喜の正木時茂を通して、越後国から上杉謙信の関東出陣を要請しました。
 謙信は前年の永禄二年に上京して将軍足利義輝から、関東管領上杉憲政に協力して関東支配にあたるよう命じられていたのです。そのため、古河公方足利義氏を擁立して関東の覇権を狙う北条氏康に対抗するために、里見氏ばかりでなく、上野国の長野業正や常陸国の佐竹義重など反北条氏の立場にある諸将は、こぞって謙信の関東出陣を要請したのです。みな北条氏の勢力拡大に危機感をもっていたので、反北条勢力を結びつける力強い存在の登場が必要だったわけです。里見氏にとっては房越同盟の成立といえるものでした。
 謙信は永禄三年の八月、関東からの出陣要請に応えて上杉憲政を連れて越後を出立、九月には上野国沼田(群馬県沼田市)へ着陣しました。北条氏の攻勢にさらされていた武蔵国忍(埼玉県行田市)の成田氏や岩付(埼玉県岩槻市)の太田資正などは、謙信の関東越山の報を聞くと北条領への侵攻を開始しています。こうした情報は久留里城を包囲する北条勢にも届き、急ぎ退却して謙信への対応に追われることになりました。里見氏はこうして危機を脱したばかりか、十二月になると正木時茂・時忠兄弟が下総国の香取(佐原市)・小見川(小見川町)といった利根川沿岸にまで進出、謙信進軍という背後からの牽制もあって、北条方の原氏の本城臼井城(佐倉市)まで攻撃をしかけていきました。
 謙信は冬になると大軍を引き連れて越後へもどることができなくなるため、関東で年を越しました。そして謙信の出陣に力を得た反北条勢力の後押しをうけて、翌年三月には北条氏康の篭もる小田原城を囲むほどの勢いとなり、関東の諸将もほとんどこれに参陣したのでした。里見氏からも里見義弘・正木時茂が参加していました。しかし小田原城をたやすく落城させることはできませんでした。謙信は長陣をさけて鎌倉へ軍を引いてしまいます。
 鎌倉へ入った謙信は、閏三月に鶴岡八幡宮で上杉憲政から関東管領職を譲られて就任します。そして古河公方として足利義氏をかつぐ北条氏に対抗するため、前公方晴氏の嫡子藤氏を公方として擁立することが決められました。新しい管領謙信と公方藤氏は、以後反北条勢力を結びつける役割を果すことになったのです。
 謙信の関東越山や小田原城包囲は房総の勢力地図を大きく塗り替えることになりました。北条氏康の攻勢にさらされていた里見氏は、これを機会に千葉一族内の最大勢力を誇っていた原氏の下総小弓城を落として、西上総から下総まで勢力を拡大し、正木氏も夷隅を中心とした東上総から臼井・小見川など下総北部にまで前線を拡大したわけです。
 しかしそれも一時的なもので、六月下旬に謙信が越後へ帰ると、氏康はすぐに勢力の回復を図りはじめます。公方として古河城に入っていた足利藤氏は、はやくも永禄五年(一五六二)に氏康によって古河城を追われてしまい、弟の藤政・家国らとともに上総へ逃れて、里見義尭・義弘父子の保護をうければならなくなったのです。そのため藤氏たちはその年の暮れにはまた上杉謙信の越山を要請し、それにあわせて里見氏や下野小山氏などの協力を得て古河城の回復をはかろうとしていました。そして義尭は、年明けの永禄六年一月に下総国臼井城(佐倉市)を攻撃しながら、二月一日には市川(市川市)まで進んで布陣、岩付まできていた謙信と連携をはかって、古河城回復のための軍事行動をおこしています。

国府台合戦ふたたび
 永禄六年(一五六三)閏十二月になると、上杉謙信はまたもや北条氏康・武田信玄の軍事攻勢に対抗して、越後から上野国に出馬、厩橋城(群馬県前橋市)に入りました。里見義弘は謙信からの出陣要請を請けて、岩付の太田資正などと連携して下総国国府台に出陣します。そうした動きを察知した北条氏康は急遽葛西城の固めを命じ、翌年正月小田原を発って、七日には国府台の向いへ布陣、今度は里見氏と北条氏の直接対決としての国府台合戦となったのです。
 この合戦は、武蔵岩付で北条氏の領国に囲まれて孤立していた太田資正が、江戸城周辺の有力領主太田康資と計画したものでした。康資は扇谷上杉氏のときに江戸城主だった太田道灌の直系子孫で、北条氏の江戸城代遠山綱景と対立を深めていたのです。里見氏の国府台出陣をうけて北条氏への反撃を試みたものでした。
 しかし里見・太田の連合軍はこの合戦で大敗を喫してしまいました。小田喜の正木時茂の跡を継いでいた正木信茂をはじめ、討死した里見方の将士は五千騎といわれています。この敗戦は前回とは違い里見氏を大きな危機に陥れることになりました。北条勢は下総から上総へと里見氏を追撃して侵攻してきたのです。二月になると養老川をさかのぼって中流域の池和田城(市原市)などを落とし、六月には小糸川上流の秋元氏が拠る小糸城(君津市)、十月には小櫃川流域の本拠地久留里城までもが落とされてしまったのです。この時常陸の小田小太郎は北条氏康から久留里在城を命じられています。
 佐貫はすでに前年から北条方の古河公方足利義氏が御座所を構えていました。佐貫の地は東京湾に面した海上交通の要所として、北条氏の勢力が房州逆乱以来入りこんでいたらしいのです。こうして西上総は瞬く間に北条氏の手に属してしまったのでした。

正木時忠の離反
 東上総では事態はさらに深刻になっていました。この大敗をきっかけに勝浦の正木時忠が里見氏を離反し、北条方についたのです。それは里見義尭が逆乱のときに苦しい思いをさせられた内房正木氏をとりこむために、時忠が海上支配の拠点にしていた金谷城を正式に引き渡したことに原因があったらしいのです。金谷城をめぐる正木氏の抗争でした。
 勝浦の離反で小田喜の正木氏は周囲を北条勢力に囲まれ、まさに苦況にたたされてしまいました。小田喜正木氏の一族である正木大炊助が支配していた一宮荘(一宮町)には、七月になって北条氏康の軍勢が進攻してきました。十二月には正木時忠の子時通も一宮へ出陣しており、一宮はこの年のうちに北条方に攻略されてしまいます。しかし国府台合戦まで北条方だった土気城(千葉市)の酒井胤治が、氏康・氏政父子から国府台合戦での不忠の疑いをかけられたことから、北条氏を離れて里見氏に一味することになったのは救いでした。とはいっても、里見氏にとって上総は首の皮一枚つながった状況に陥ってしまったのです。
 上総がこうした事態になると、里見氏の本拠地安房に対しても北条氏の直接侵攻がはじまりました。この年水軍を指揮する北条氏繁が館山湾を荒らし回り、二百余艘の船を乗り付け、上陸して那古寺・延命寺など館山平野の十里四方を放火していったといわれています。

三船山合戦
 国府台合戦で大敗を喫した里見氏は、北条氏に領国内を侵略されたうえ、正木時忠の離反にもあって苦況のなかにいました。里見義弘は事態打開のため永禄八年になって再度上杉謙信の関東出馬を要請しています。そして十一月、謙信もまたそれに応えて上野国へ出馬をしてくるのです。そのとき謙信は北条氏への牽制のために、義弘に対しても武州出陣を依頼してきました。義弘もそれに応えて、安房国では出陣の軍費調達のために棟別銭という臨時課税の徴収が行なわれました。このとき義弘は結局出陣できなかったようですが、翌年の永禄九年(一五六六)三月に謙信が下総臼井の原氏を攻撃したときには、義弘は臼井城攻撃に五百騎を率いて参陣しました。結局これを落とすことはできなかったものの、この攻撃には土気の酒井胤治も加わっており、上総の状況は徐々に回復の兆しをみせはじめていたのかもしれません。
 そして永禄十年八月、西上総の海岸線を確保しておきたい北条氏政は、佐貫城の北にある三船山(富津市)に陣を布き、里見義弘と対陣しました。この合戦に勝利した里見氏は西上総をほぼ挽回し、危機を脱することに成功するのです。
 この永禄年間に里見義尭・義弘父子は、上杉謙信との軍事提携をすることで北条氏康に対して圧力をかけ、独自の公方を押立てて氏康に対抗し、武蔵や下総にまで軍勢を押進めたり、上総や安房まで押し返されたりという攻防を繰り返しました。それはもちろん里見氏が単独で上杉謙信と軍事同盟を結んで協力しあったのではありません。岩付の太田氏をはじめ常陸の佐竹氏・下野の小山氏・上野の上杉家臣たち、そして上杉方の公方を側近として支える関宿(関宿町)の簗田氏など、北関東に数多くいる反北条勢力との連携のなかでの戦いでした。

房甲同盟
 ところが永禄十二年(一五六九)、そうした関東の力関係が大きく変わる事態がおこりました。永禄十一年の暮、甲斐の武田信玄が駿河の今川氏真・相模の北条氏康と結んでいた三国軍事同盟を破棄したのです。このころ信玄は謙信の関東越山を牽制するために西上野への進出をはじめ、また駿河をも圧迫するようになっていました。そして三河の徳川家康と結んで駿府から今川氏真を追い落としたことから、北条氏康・氏政父子が氏真に加勢して駿河へ兵を送り、信玄と対立することになってしまったのです。このため氏康は宿敵であった上杉謙信との講和の道を選択しました。
 この講和は、里見氏はもちろん反北条勢力がこぞって、謙信に対して断固たる反対をしたにもかかわらず、翌十二年には成立してしまったのです。しかも謙信は里見氏に対しても北条氏康との和睦をすすめてきました。しかし義尭も義弘もこれを受け入れることはなく、かえって友好関係を続けてきた謙信と断交してしまうのです。 あくまで北条氏との抗争を続ける意志のある義尭・義弘は、北条氏康と対立することになった武田信玄と新たな協力関係をつくることになりました。房甲同盟の成立です。しかしこの勢力バランスは長く続きませんでした。元亀二年(一五七一)に北条氏康が没してしまうと、跡を継いだ氏政は、翌年もとのように武田信玄と結んで、謙信とは手を切ってしまったのです。そのため謙信は詫びを入れて再び里見氏・佐竹氏などとよりをもどすのですが、里見氏は信玄との友好関係はそのまま続けました。しだいに関東の勢力分布は、帰趨が単純に二分された時期から複雑な外交関係が交錯する状況になっていったのです。

房相和睦
 天正二年(一五七四)六月、里見氏を関東有数の戦国武将に育て上げた義尭が六十八歳で没しました。この時期には東国で世代交代がおきています。小田原の北条氏康につづいて、甲斐では天正元年に武田信玄が死んで勝頼が継ぎ、天正六年には越後の上杉家でも謙信が死にました。また勝浦の正木時忠も天正四年に、息子の時通も天正三年にあいついで死んでいきました。小田喜の正木時茂はすでに永禄四年(一五六一)に没しており、その跡を継いだ信茂も国府台で討死、小田喜正木氏は憲時時代になっていました。義弘をめぐる顔触れは大きく変わり、戦況もまた変わっていきました。
 義尭が死んだ天正二年、反北条勢力の牙城だった簗田氏の関宿城が落城すると、北条氏政の房総への攻撃が激しさを増してきました。各地で激しい攻防が展開され、天正四年になると里見氏とともに房総で北条氏に抵抗していた土気城の酒井胤治が、その攻勢を支えきれなくなって降伏してしまいました。有木・椎津・池和田・長南などの上総の諸城が北条方の前線基地として取り立てられていくと、里見方の劣勢はいかんともしがたく、十一月ころには北条氏政との和議締結へと里見義弘の方針は大転換をとげていきました。そして義頼の正室に北条氏政の娘を迎えて、義弘は和議を成立させ、北条氏との長い抗争に終止符をうったのです。
 翌天正六年(一五七八)五月義弘もその生涯をとじました。しかしこの時期の義弘の死去は里見氏のなかに争乱の火種を残す結果となったのです。

第四章 関東のなかの房総

里見氏の上総進出
戦略のなかの里見氏
天正の内乱
流通と領国政策
第五章へ……