上総武田氏の内乱
 義尭は内乱を終結させるにあたって、小弓公方や古河公方・武田氏・北条氏など、周辺の勢力から介入されることはなかったものの、北条氏の軍事力に頼った義尭は、以後親北条氏の立場で行動するようになりました。天文四年(一五三五)十月には武州河越(埼玉県川越市)の扇谷上杉朝興攻撃に正木時茂・時忠兄弟を援軍として送り、翌年三月にはいったん義豊が拒否していた鶴岡八幡宮造営用の材木を提供するのです。
 このときには上総の武田氏からも材木が提供されました。それを引き出すために相模国から大勢の人夫が峯上(富津市)へ送り込まれています。材木を提供したのは峯上を勢力圏にしていた武田信隆でした。北条氏とは対立していた真里谷武田氏のなかで、信隆は親北条氏の立場だったのです。このとき、真里谷武田氏でも内乱がおきていたのでした。
 武田恕鑑の家督相続をめぐって嫡子信応と、信応の兄でありながら側室の子であるために家督を継げない信隆との対立にはじまる争いでした。里見氏の内乱が終結した直後の天文三年五月から六年五月にかけて、小弓公方の支持を得た信応に対し、信隆は百首城・峯上城(富津市)を拠点に後北条氏の軍事支援を得て抵抗しました。同じ庶流でありながら政権獲得に成功した里見義尭と同じように、北条氏と結んだのです。
 しかし里見義尭は、天文六年(一五三七)五月、峯上城を攻撃する小弓公方から信隆攻撃の要請を請けると、北条氏綱と手を切り、信隆方の百首城を攻めて真里谷武田氏の内紛に介入します。そしてこれ以後北条氏とのあいだで四十年におよぶ抗争を繰り広げることになるのです。結局真里谷武田家の内乱は数日で信隆が城を明け渡し、鎌倉へ追放されることで終結しました。しかし惣領の信応は、自力での解決ができず小弓公方の権威に頼ったわけで、義尭のように内乱を通じて権力を強化することはできませんでした。それどころか真里谷武田氏は以後上総での支配力を弱めていくことになったのです。

国府台合戦の敗北
 武田氏の弱体化に追い打ちをかけたのが国府台での合戦の敗北でした。勝利の勢いにのった小弓公方義明は、念願の古河公方退治を実行しようとします。さっそく六月には義尭に対して参陣の催促がありました。しかし義尭は少しずつ小弓公方から距離をとりはじめていたようです。義明は参陣の要請とあわせて、北条氏綱からの
依頼で鶴岡八幡宮への材木寄進も仲介してきたのですが、義尭は敵地を理由に寄進の要請は受け入れませんでした。
 それに小弓公方軍の主力となるべき真里谷武田氏は内乱で分裂して弱体化し、下総で小弓公方義明に従っていた臼井氏もこのころには姿を消していました。それに比べて北条氏は天文六年に武蔵河越城をとり、翌年二月には葛西城(葛飾区)も落として武蔵国の過半を上杉氏から奪い取り、上杉氏配下の岩付城も攻撃するなど、確実にその勢力を拡大していたのです。そのため古河公方攻略の目標である関宿城(関宿町)攻撃のために、東京湾から江戸川を遡ることも容易な状況ではなくなっていました。
 それでもなおかつ小弓公方義明は関宿攻撃のために下総国国府台(市川市)へ進軍しました。古河公方の命を
うけ国府台と接する葛西城に布陣した北条氏との間で、天文七年(一五三八)十月七日、国府台の合戦は行なわれました。しかし小弓公方軍の主力部隊は公方一族とその家臣たちでした。前線の義明はじめ弟の基頼・御曹司義純・重臣逸見祥仙などそのことごとくは討死、小弓公方はこの合戦で滅亡してしまったのです。前線にいなかった里見勢は無傷のまま帰還、義明の末子頼淳や二人の女児は、遺臣の佐々木源四郎・佐野藤三たちが伴って逃れ、小弓城を焼くと里見氏を頼って安房へと落ちていったのです。
 勢いにのった北条氏はそのまま上総に進攻し、保護していた武田信隆を上総椎津城(市原市)に復帰させます。一方小弓公方の権威によって権力を維持していた武田信応は、義明の死によって窮地にたつことになりました。これによって真里谷武田氏は再び内乱状態に陥ってしまうのです。そして天文十二年・十三年の笹子城・中尾城(木更津市)をめぐる争乱によって、またしても里見氏と北条氏の介入を招くことになり、上総は両勢力の草刈り場となってしまいました。そうしたなかで真里谷武田氏は土豪たちへの支配力を失い、天文年間の末には滅亡していったと考えられています。

上総への進出
 国府台での敗戦は義尭にとってはなんの痛手にもならなかったのです。むしろ小弓公方の遺児を引き取ることで、上総に地盤を持つ小弓公方の直臣たちを基盤に上総進出の足掛かりをつくり、真里谷武田氏の内乱に乗じて、天文十年代の中頃には久留里や佐貫などを手中に収めていったと考えられています。そして義尭は佐貫(富津市)へと拠点を移していったのでした。
 時を同じくして、東上総でも正木氏を中心に侵攻が始まっていました。天津や勝浦・小田喜などの真里谷武田氏の属城だったとされている拠点を落としていったのです。天文十一年(一五四二)には正木時忠が勝浦を支配下におき、十三年頃には正木時茂が小田喜を落として東上総支配の拠点にすると、長狭郡から夷隅郡にかけての地域に独自の支配領域をつくりあげていきました。
 一方北条氏も椎津城に入れた武田信隆を足掛かりに下総から上総へと進出をはじめ、長南(長南町)の武田氏や土気(千葉市)・東金(東金市)の酒井氏、万喜(夷隅町)の土岐氏などの上総に分立する武将たちも、やがてどちらへ組するかの帰趨をせまられていきました。また里見義尭も上総支配へむけての足掛かりを得たとはいえ、まだ支配を確立できたわけではなく、真里谷武田氏に属していた土豪たちをどのように掌握していくかが上総支配の鍵でした。そこへ東京湾沿岸の内房正木氏や上総湊川流域の武田勢力を動かして、北条氏康が里見氏の上総支配に揺さぶりをかけてきたのです。これは東京湾をめぐる里見氏と北条氏の抗争が、海上支配の拠点の争奪戦として本格化してきたということでした。

房州に逆乱起る
 吉浜(鋸南町)の妙本寺には北条氏が出した天文年間の制札が数多く残されています。妙本寺が北条氏と里見氏の戦闘に巻き込まれやすい場所だったということですが、里見家の天文の内乱で義尭が百首城に立てこもって北条氏の支援を得たり、武田氏の内乱でも北条氏を頼った信隆が百首城・峯上城を拠点としたように、安房国北郡から上総国百首の海岸線や湊川流域にかけての地域は、北条氏の影響力が及びやすい地域だったことがわかります。
 とくに天文年間の後半には房総への勢力拡大を図っていたようで、その頃穂田郷(鋸南町)の地頭だった正木弥五郎が北条氏に属すようになって、穂田郷や妙本寺周辺が北条氏の勢力下に置かれていたことがありました。また湊川流域でも武田氏の内乱後に義尭の取り成しで、峯上城に武田信応の叔父武田全芳を置いていたのですが、天文十年代には北条氏の息のかかった伊丹氏が、北条氏康によって峯上城に置かれていたようです。
 北条氏康は天文二十一年(一五五二)暮れになると、久留里の下流にあたる小櫃を占領し、翌二十二年四月には玉縄城(神奈川県鎌倉市)の水軍を率いた北条綱成が妙本寺に侵攻して、房州北部から上総東部は緊迫の様相を呈してきました。さらに六月二十六日にも侵攻してきた北条氏康は、正木弥五郎などの内房正木氏を動員して里見氏に反乱をおこさせたのです。房州の逆乱とよばれるもので、七月には正木時忠が守る金谷城が攻撃をうけました。この逆乱は翌年には峯上城の吉原玄蕃助をはじめとする同城の二十二人衆といった北条方の土豪層も加わり、数年に及ぶ争乱となりました。玄蕃助などの峯上衆はおそらく武田信隆を支えた在地勢力なのでしょう。その活動は清澄山系を越えて長狭郡にまで及び、里見氏方の情報収拾や、撹乱、戦闘などをおこなったのです。
 こうした内房正木氏の反乱や峯上衆たちの活動は里見氏にとって大きな痛手となりました。義尭は佐貫を大軍で攻められて久留里(君津市)へと居城を移し、その久留里も天文二十三年(一五五四)には北条勢に包囲されたと伝えられています。義尭はこうした事態に追い込まれたことで、氏康を後々まで恨んでいたようです。
 内房正木氏や峯上衆によるこのような危機的状況は、その後もしばらく繰り返されておこり、弘治三年(一五五七)五月には北条方の長南武田豊信の軍勢が、正木時茂の領内である清澄寺(天津小湊町)にまで侵攻するなど、北条勢力にとって優位な戦況が続いていました。氏康は天文二十三年に駿河の今川義元・甲斐の武田信玄と同盟を結んで、関東計略のための背後の憂いをなくしていたことも大攻勢の背景でしょう。義尭の上総支配はたやすくは進展しなかったわけです。

第四章 関東のなかの房総

里見氏の上総進出
戦略のなかの里見氏
天正の内乱
流通と領国政策
第五章へ……