上杉家
 関東管領としてナンバー2の地位にある上杉家は、そもそも足利尊氏の母の実家でした。
 そのため足利尊氏が鎌倉幕府に反旗をひるがえしてからは、母の兄上杉憲房が尊氏をささえて信頼を得ます。その子どもたちも尊氏に重用され、とくに尊氏の弟直義に従って関東に勢力をひろげます。基氏が鎌倉公方になるとその補佐として関東管領になり、以後上杉家で管領職をつとめるようになったのです。山内上杉氏を惣領家として、扇谷上杉・犬懸上杉・宅間上杉・庁鼻上杉・越後上杉などの一族にわかれ、越後から上野・武蔵・相模・伊豆・上総などで守護をほぼ独占して、関東での一大勢力になりました。
 戦国期には山内上杉氏と扇谷上杉氏が力をもっていましたが、伊豆・相模・武蔵を地盤にする扇谷上杉氏が北条氏の進出で大永四年(一五二四)に江戸城を失うと、東京湾での覇権争いから後退、じりじりと武蔵の北へと押されていきました。天文六年(一五三七)に河越城(埼玉県川越市)が北条氏綱に落とされ、天文十五年(一五四六)に河越城奪還の反撃に出た上杉朝定が戦死すると、扇谷上杉家は滅亡してしまいました。
 さらにこの敗戦で扇谷上杉氏を支援した関東管領の山内上杉憲政も、領国の上野国平井(群馬県藤岡市)に敗走してしまいます。武蔵に勢力をもっていた上杉家の有力家臣もつぎつぎと北条氏の傘下になっていくうえ、天文二十一年(一五五二)には上野国平井から厩橋(前橋市)、白井(子持村)と追い詰められていくと、ついに上杉憲政は上野国を脱出して越後の領国へと落ちていきました。北条氏が武蔵から北関東へと進出するなかで、上杉氏は関東での支配の実権を奪われてしまったのでした。

後北条一族
 小田原の北条氏は、鎌倉時代の北条氏と区別するために後北条氏と呼ばれます。延徳三年(一四九一)に伊豆を平定した北条早雲を初代に、氏綱・氏康・氏政・氏直の五代にわたって、相模国小田原城を本拠にていました。伊豆・相模・武蔵・下総と支配領域をつぎつぎに広げて、関東の大半を支配下におき、関東最大の戦国大名になった一族です。天正十八年(一五九〇)に豊臣秀吉に滅ぼされるまで、上野・下野・常陸・上総・駿河などで、勢力を接する戦国大名たちとしのぎを削りあっていました。
 北条氏の勢力拡大は、それまで相模・武蔵などに勢力をもっていた扇谷上杉氏が、そのまま勢力を縮小していくということでもありました。上野国平井城(群馬県藤岡市)を拠点にしていた関東管領の山内上杉憲政も、天文二十一年(一五五二)正月に関東を追われてしまうと、上杉氏の領国は北条氏に取って代られてしまったのです。
 そうした北条氏の進出を脅威と感じ、また利害が対立した周辺の勢力というのは、房総の里見氏、常陸の佐竹氏、武蔵岩槻から常陸に逃れ佐竹氏の庇護をうけていた太田・梶原父子、下総の古河公方・結城氏、下野の小山氏・宇都宮氏、上野の由良氏・長尾氏、上野を接点に北条氏と対立した越後の上杉氏
・甲斐の武田氏などでした。しかし彼らもまた近隣の勢力との争いを乗り切るために、北条氏と反北条氏勢力の間を巧みに立ち回りながら、北条氏の力をかりるために同盟を結ぶこともあったのです。
 こうした豪族たちを相手に、北条氏が関東で勢力を拡大し支配をすすめていくためにとった対策が、伝統的な権威を利用することでした。まず姓をそれまで使っていた伊勢氏から北条氏に改めました。それは鎌倉時代の執権北条氏の副将軍という立場を意識したもので、よそ者である北条氏が関東の副将軍といえる上杉氏に対抗していくための手段でした。そして公方足利氏を頂点に、関東管領の上杉氏がそれを補佐するという体制は受け継ぎ、上杉氏になり代って関東の豪族たちを指揮しようという立場を表明したことでもあったのです。そしてそれは、天文七年(一五三八)の国府台合戦に北条氏の力によっ
て勝利することで公方の足利晴氏から承認されました。
 さらにその立場を強化するため、北条氏綱の娘を公方晴氏の正室にしました。そしてふたりの間に生まれた義氏を、嫡子を差し置いて強引に公方に就任させたのです。それは関東管領上杉憲政が関東から越後へ出奔した同じ年の暮れのことでした。これによって公方足利氏と北条氏は御一家という関係にもなりました。そして以後、北条氏は公方の意志を受けた公の立場で関東に影響力をもとうとしたのです。

上杉謙信
 越後に逃れた管領憲政は、越後上杉家が断絶したあとの越後の争乱をおさめて実権を握っていた、春日山(新潟県上越市)の守護代長尾景虎をたよりました。のちの上杉謙信です。憲政は謙信に関東への出陣を要請して、関東の秩序回復を依頼したのです。信濃をめぐって甲斐から出陣した武田信玄らとの対立が激化するなか、要請をうけた謙信は幕府の許可をうけると、永禄三年(一五六〇)九月にはじめて関東へ出馬をしました。これは反北条勢力の里見氏や佐竹氏の要請を請けたものでもありました。以後謙信は関東の武将たちからの要請をうけては関東への越山をくりかえすこと十四回、冬に関東で年越しをした回数は八回にも及んだといいます。
 永禄三年に関東へ出陣した謙信は関東の武将たちに参陣を要請し、各地の北条方を攻撃しながら翌年の三月には小田原城を包囲しました。このときに謙信は、鎌倉へともなっていった上杉憲政から関東管領職を譲り受け、さらに名を上杉政虎と改めました。山内上杉氏の家督も継いだのです。ちなみに謙信と称したのは晩年の天正二年(一五七四)のことです。
 そしてこの年、古河公方晴氏の嫡子でありながら、北条氏によって強引に家督を弟義氏に継がれてしまっていた足利藤氏が、関東管領上杉政虎のもとで古河公方に就任したのです。もちろん義氏が家督を譲ったわけではありません。つまりこれ以後は、上杉謙信と北条氏康がおたがいに関東管領としてそれぞれの公方を戴き、関東の武将たちをまきこんで対立することになりました。

第三章 里見氏の周辺

里見氏と足利氏
里見氏と正木氏
上杉氏と北条氏
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