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正木氏登場のなぞ
戦国時代の房総に里見氏とともに現われてきた有力な豪族に正木氏があります。三浦半島を中心に平安時代の末から鎌倉時代にかけて、房総半島にも勢力をのばして、東京湾の制海権を握っていた三浦氏の系統だといわれています。鎌倉幕府の有力御家人だった三浦氏や和田氏などは滅亡しましたが、その後も三浦半島にはその一族が勢力を持ちつづけ、三浦氏の家督も一族の中から相続するものがあり、戦国時代に北条早雲に滅ぼされるまでつづきました。三浦氏の一族には安房にも土着していったものが多く、多々良荘(富浦町)の多々良氏・佐久間郷(鋸南町)の佐久間氏・三原郷(和田町)の真田氏などが三浦一族とされています。安房を代表する武士である安西氏も三浦氏とつながる一族だといわれていたり、また三浦と安房を行き来して行動する糟屋氏などもいたりと、安房と三浦は強く結びついていました。この正木氏もこれまでは、明応三年(一四九四)の三浦氏の内部抗争に敗れた三浦時高の遺児が安房に
逃れて正木郷(館山市)に住み、正木時綱と名乗ったのが初代とされてきました。里見氏と同じように由緒のある武士が安房へ逃れてきたという話になっていたわけです。この時はまだ一、二歳の幼児でした。しかしこの話は不合理だということが以前から指摘されていました。
亡命から十四年後の永正五年(一五〇八)に里見義通が鶴谷八幡宮(館山市)に奉納した棟札では、正木氏には安房国主の里見義通につぐナンバー2の国衙奉行人という地位が与えられてるのです。亡命してきたうえまだ十代の少年が、ナンバー2の地位にあるの不合理だというのです。しかも正木氏はこれ以後も決して里見氏の家臣ではなく、里見氏とは同等の立場の戦国武将であり、里見氏に協力をする独立性の強い存在でありつづけていました。永正五年の時点で安房国のナンバー2の地位にあるのは、すでに安房国内でも里見氏に次ぐ勢力をもっていたからこそといえます。そうした実力は正木氏がもっと早くから安房に土着し、三浦系
の武士たちの支持をえて着々と獲得した力だと考えられています。そして当主は通綱という名前が書かれています。当時の他の資料でも、正木氏は通綱という名でしかでてきていません。名前は時綱ではなく、義通から「通」の一字をもらって通綱と名乗っているのです。
正木通綱がその勢力圏にしていたのは、正木氏が本城にしていたという山之城(鴨川市)がある長狭郡を拠点に、朝夷郡の北部(千倉町以北)にも及んだようです。三原郷の真田氏や久保郷(千倉町)の上野氏は正木氏の重臣になっています。丸山町から和田町・鴨川市にかけて正木氏の伝承やゆかりの寺院が多いのもそのためなのです。この地域には源頼朝の挙兵のときに三浦義澄が長狭氏を滅ぼして以来、三浦氏の影響力が浸透し残っていたということのようです。
通綱は里見義通・義豊のもとで、大永六年(一五二六)には里見氏の指示によって、北条氏の監視下にはいった品川方面への攻撃をおこなっています。この港湾都市品川をめぐる攻防は、もちろん水軍による攻撃です。これは正木氏が水軍をつかいこなすことができる海の領主という面をもっていたということで、それが正木氏の力の源でもあったのです。
そしてその力が里見氏の房総支配に大きな役割をはたし、また逆に里見氏を困難に陥れもしたのです。正木氏は独自の勢力として里見氏の歴史に大きな影響を与えました。
正木大膳
ところで、正木氏といえば正木大膳の名が里見氏の史書のなかによく出てきます。正木通綱も大膳亮とか大膳大夫などと名乗りました。この大膳というのは戦国期の正木氏歴代のなかに少なくとも四人登場します。こうした名乗りを官途といいますが、家ごとに歴代が同じ官途をつかうケースはごく一般的に行なわれていたことでした。
ひとりめが正木通綱で、天文二年(一五三三)に里見義豊に殺されて内乱のきっかけになった人物です。次にその跡を継いだ時茂が大膳亮と名乗りました。後世に槍の大膳と呼ばれて勇猛な武将として名を知られたのがこの時茂で、永禄十年の三船山合戦などで正木大膳の活躍する様子がえがかれていますが、じつは時茂は永禄四年(一五六一)に没しています。この大膳は当時から有名で、時茂は当時、房総からは遠くはなれた越前国の武将朝倉教景からさえも「人づかいの上手」と評されるほど、関東を代
表する武将として名を知られていました。
三人目が天正九年(一五八一)に里見義頼に滅ぼされた正木憲時です。四人目はその跡へ養子に入った二代目の正木時茂で、里見家が慶長十九年(一六一四)に滅びたときにいた大膳です。家を継ぐと名前も継ぐことから、正木大膳が百年にわたって活躍することになり、そのうえ時茂がふたりもいるため正木大膳についての混乱がおこりがちです。さらに戦国時代の正木氏には独自の勢力をもっていた家が三家あったことから、なおさら分かりにくさを増してくるので気をつけなくてはなりません。つぎにその三家について紹介しておきます。
三つの正木氏
正木氏は大きく分けるとふたつの系統ということになります。ひとつは内房の水上勢力を握っている正木氏で、もうひとつは外房に勢力を広げた正木氏です。そして外房の正木氏がさらにふたつの家に別れるのです。
内房に勢力をもった正木氏は、外房の正木氏よりも古くから安房に入りこんでいた三浦氏ではないかと考えられている一族です。外房の正木氏も含めて房総正木氏の本家にあたるかもしれないといわれています。その勢力圏は勝山城のある佐久間(鋸南町)あたりから百首城のある造海(富津市)にかけての海岸部が中心で、対岸の三浦半島にも古くから所領をもっていたようです。つまり三浦半島と内房を股にかけて活動する海の豪族といえる存在です。 正木氏はもともと安房国の国衙の役人だったのではないかと考えられています。それは東国経済の大動脈になっていた東京湾で、関銭徴収や海上勢力の支配などに関する権限は国衙がもっていたからです。役人として正木氏がその権限を握っていたからこそ、戦国時代になっても水軍などの海上勢力を動かすことができたのだというわけです。水軍を動かす力をもつ内房正木氏が、房総正木氏の本家といえる理由もそこにあるわけです。
内房正木氏
現在正木(館山市)という地名は国衙があった府中(三芳村)の隣にありますが、府中は慶長期には東国府とよばれて正木村のうちに含まれていました。国衙は正木郷のうちにあったわけで、そこを拠点にしていた正木氏が国衙の有力な役人だったことは充分に考えられるわけです。
この内房正木氏については、天文十六年(一五四七)に正木弥五郎が保田郷の地頭として現れるのが最初に確認できる人物です。もちろんそれ以前からこの地域に勢力をもっていたはずです。その後天文二十二年(一五五三)から二十四年にかけて、上総峰上城を中心とする湊川流域の勢力を組織して北条方として活動し、里見氏に対して逆乱とよばれる争乱を引き起こしています。天文年間の末から天正年間の初めにかけては金谷城(富津市)を拠点にしていて、正木兵部大輔が内房正木一族の中心人物でした。永禄二年(一五五九)には北条氏から三浦半島で高額の所領を与えられていて、里見氏にも敵対する独自の勢力だったことがわかります。永禄年間には里見氏に帰順しますが、同じ一族の正木淡路守が入れ替わって金谷城にはいったようです。
そして天正五年(一五七七)に里見氏が北条氏と和睦すると金谷城の役割は薄れ、淡路守は子源七郎とともに百首城に移って拠点とするようになり、兵部大輔の系統も安芸守が勝山城を拠点にするようになりました。百首の正木氏と勝山の正木氏は、ともに里見家のなかでは特別な家柄としての地位があったようで、天正十三年(一五八五)に里見義康が鶴谷八幡宮の神前で元服したときには、左右について介添えの役を勤めています。やがて義康の弟たちがそれぞれの家を継ぐことになり、里見家の御一門衆になりました。
小田喜正木氏
正木通綱は内房正木氏から別れた一族ではないかと考えられるようになってきています。外房の正木氏は通綱の系統で、天文年間の中頃に里見義尭と手を組んで東上総へ進出しました。その時通綱の子時茂と時忠の兄弟は、それぞれ小田喜城(大多喜町)と勝浦城(勝浦市)を上総経営の本拠地にして、それぞれが独自の領国をつくりあげています。その本拠地の地名をとってふたつの正木家を呼び分け、小田喜正木氏と勝浦正木氏と呼んでいます。また小田喜正木氏の当主は代々大膳亮を名乗り、勝浦正木氏は代々の当主が左近大夫を家の名乗りにしていました。
天文の内乱で殺された通綱を継いだのは大膳亮時茂で、天文七年(一五三八)の国府台合戦で小弓公方の足利義明が戦死すると、東上総の長南武田氏と戦いながら夷隅方面へ進出しました。そして長南武田氏の拠点のひとつだった小田喜城を落として、天文十三年(一五四四)頃にここを拠点にします。夷隅川の上流から中流域を中心に、長狭郡(鴨川市)や一宮川の河口付近(一宮町)までふくめた広範囲の地域で、土豪たちを家臣にして独自の支配をしました。正木家の家臣として上野・吉田・河野・真田・高梨・岡村などの諸氏が知られています。
時茂は上杉謙信が小田原城の北条氏を攻撃した永禄四年(一五六一)三月、里見義弘とともに小田原攻撃に参加しますが、それから間もない四月六日に没します。その後継者になったのは時茂の子正木平七信茂ですが、永禄七年(一五六四)正月の国府台合戦で戦死しています。この人は小田喜正木家の家督継承者がつかう弥九郎や大膳亮を襲名しませんでした。その跡をうけたのは信茂の弟で憲時といいます。里見義弘の没後に里見家から自立の動きを見せはじめたため、里見義頼と対立して天正九年(一五八一)に義頼に攻められ、小田喜正木家はいったん滅ぼされてしまいました。
これによって小田喜正木氏の領国に里見氏の支配が直接及ぶようになりましたが、正木氏によって長年支配されてきたこの領域には、正木氏の家名による支配が必要とされました。義頼は側室の正木時茂の娘が生んだ別当丸に正木家を相続させて、二代目の時茂を名乗らせました。幼年だったため、憲時の弟石見守頼房が城代として実質的な支配を任され、義頼は正木領への大きな影響力を残したのでしょう。これによって小田喜正木家は里見氏の一門となり、幼主忠義の時代には、逆に里見家で大きな力をもつようになったのです。
勝浦正木氏
時茂の弟時忠は、上総へ進出すると武田氏から奪った勝浦城に入りました。小田喜より早い天文十一年(一五四二)のことでした。勝浦城は海の城で勝浦湾一帯は房総半島の東海岸随一の湊でした。勝浦正木氏はこの湊を拠点に周辺のあまり広くない海岸地域を支配していただけのようです。それは勝浦正木氏が水運の管理能力をもっていたということと、勝浦という湊が大きな経済力をもっていたことを示しています。
時忠は勝浦への進出以前に、里見義尭から内房正木氏が拠点にしていた金谷城の城主になっていた時期があります。時忠が天文の内乱をともに乗り越えた義尭との関係を背景に、本家の内房正木氏に取って代って内房の水軍を掌握しようとしたのでしょう。その支配は天文二十二年(一五五三)の逆乱までつづいたようです。時忠はそうした力を背景に太平洋岸の港湾都市勝浦にも進出してきたのでしょう。
さらに永禄年間には香取神宮近くの小見川の津(小見川町)まで進出して、六年にわたって利根川流域に城を構えていました。これも水軍の能力を背景に維持したと考えられるもので、広域的な活動をしていたことがわかります。
小見川での活動は小田喜正木氏の指示の下にありましたが、永禄七年(一五六四)の国府台合戦後、金谷城をめぐる内房正木氏との対立から、里見氏のもとを離れて北条氏と結び、小田喜の本家とも関係を断つと、以後独自の道を歩んでいきます。
時忠は天正四年(一五七六)に没しました。嫡子は十郎時通といい、永禄七年に小田喜正木氏領の一宮を攻略していますが、父に先立つ天正三年に没しています。その跡を継いだのは、時忠が里見氏から離反したときに北条氏のもとへ人質にだされていた頼忠でした。里見氏と北条氏が和睦したのち天正七年頃に帰国したようです。頼忠は小田喜の正木憲時が反乱したときには里見氏に属して働いています。この頼忠が人質として伊豆にいたときの子に、後に徳川家康の側室になったお万の方がいました。その縁で里見家滅亡後もこの系統の正木一族は繁栄をつづけることができました。 |
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第三章 里見氏の周辺
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里見氏と足利氏 |
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里見氏と正木氏 |
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上杉氏と北条氏 |
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第四章へ…… |
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