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天文の内乱のあらすじ
天文二年(一五三三)七月二十七日、義通以来安房国を押さえるための重要なパートのあらすじ ナーになってきた正木通綱が、里見義豊によって稲村城に呼び付けられて殺害され、同時に叔父の里見実尭も殺害されるという事件がおこりました。とくに叔父実尭の殺害については義豊による処罰という意味をもっていました。それは通綱を殺害する理由と関連してのことだったようです。
この事件によって里見家は内乱の状態になりました。まず事件を聞いた実尭の子義尭とその一党は、義豊に対抗するために上総の百首城(富津市)に立てこもりました。この城は真里谷武田氏に属する城で、東京湾の海上交通の拠点でもある城です。三浦半島に最も近いこの城を拠点にした義尭はこの時、義豊が敵対していた北条氏綱に援軍を要請したのです。三浦半島を支配下においていた北条氏と、三浦半島と緊密なつながりのある内房総の拠点を確保した義尭が組んだわけで、これで東京湾の制海権に先手を打ったことになります。しかも百首城は真里谷武田信隆の属城ですから、背後に武田信隆の支援もあるわけです。
両者の戦闘はすぐにも開始されました。義豊は上総金谷(富津市)を中心とする実尭の支配地域に攻撃をしかけました。八月二十一日には妙本寺(鋸南町)を舞台にして、北条水軍を担う山本太郎左衛門尉らとの戦闘がおこなわれています。これは両者にとって決戦ともいえる重要な戦いで、妙本寺・金谷・百首とつながる海上拠点の争奪戦でした。房総方面を担当する玉縄城主(鎌倉市)の北条為昌は、二日後、山本太郎左衛門尉が先駆けとして奮闘し、義豊軍を叩きのめす活躍をしたことを賞した感状を与えています。この方面の戦いは義尭方が勝利したのでしょう。
同じ八月に正木時通の子時茂も義豊軍と合戦を繰り広げています。義豊軍との戦闘は八月中にほぼ大勢が決したのか、時茂はこの乱中に、自分の家臣の上野弥次郎に上野筑後守の名代となり家督
時相続することを認めています。上野氏は正木家の重臣ですが、この乱中に緊急な家督相続をしているのは、上野筑後守も正木時通とともに義豊に討たれていたということかもしれません。
これに対して義豊方の反撃もあったようで、九月六日、義豊軍は三浦半島の津久井(横須賀市)に出陣して北条氏への直接攻撃も試みたようですが、翌日には撤退してしまいました。その後は義豊方の劣勢はいかんともしがたく、九月二十四日、義豊方の拠点はことごとく落とされて、義豊は最後に残った滝田城(三芳村)に立てこもりました。しかし二十七日にはその滝田城も危うくなってしまい、義豊も義尭と同じように上総の武田氏を頼り、武田氏の惣領武田恕鑑がいる真里谷城(木更津市)へと落ちのびてしまいます。こうして義豊は安房国を追われてしまったのでした。滝田城はほどなく落城し、義豊の妹婿にあたる城主の一色九郎は義尭によって反逆者として討ち取られ、十月には安房国は義尭の手に落ちたのです。
上総へ逃れた義豊は翌年になって反撃をはじめました。態勢をととのえて四月はじめ頃に上総から安房へ進攻してきたのです。北条氏からはまたもや義尭への援軍が派遣されました。そして四月六日、義豊と義尭がお互いに大将としての直接対決がおこなわれ、両軍のあいだで激戦がかわされました。有名な犬掛合戦です。義豊方では数百人もの人々が戦死し、義豊も討ち取られて、この内乱は義尭の勝利となって終わりました。義豊の首は小田原の北条氏綱のもとへ送り届けられています。義尭の勝利に北条氏の貢献が大きかったことがわかります。
内乱の伝承
ところで、犬掛(富山町)から上滝田(三芳村)、腰越(館山市)そして稲村城跡にかけての平久里川に沿って、この内乱に関する伝承、とくに最後の決戦となった犬掛合戦のときの伝承が数多
く伝えられています。犬掛にはその古戦場という場所があり、勝負田という地名も残されていました。上滝田にも滝田城跡のふもとに川又古戦場があって戦いが繰り広げられたといわれ、討死した義豊方の中里備中守以下十三人を葬ったという十三塚の伝承があります。腰越には最後の決戦の場になったという狐塚の古戦場や、義豊方の武将鎌田孫六が自害したという伝説がある滝川の鎌田淵、稲村城跡の南方の田の中には義豊の首を埋めたという水神の森の伝承、そして敗れた義豊方の家臣だったと伝える家も多くあって、この地域の人々にとっての最後の決戦の印象が、いかに大きなものだったのかが伝わってきます。
内乱原因の矛盾
こうした里見家の有力者二人が殺害されるという事件が、突発的偶発的におこるわけもの矛盾 なく、事件が起こり内乱になる兆し、つまり分裂する要素がそもそもあったはずです。当主とはいえ義豊が叔父にあたる実尭を処罰するとは、いったい何があったのでしょうか。
この事件に関しては、これまで江戸時代に書かれた里見氏の軍記物語で説明されてきましたが、その説明は事件の原因もそして経過も、まったく事実とは違うものだったことがもう分かっています。事件の経過についてはこれまで、実尭と正木通綱を討った義豊が稲村城に入城し、上総に逃れていた義尭が翌年になって安房へ攻撃をしかけてきて義豊を打ち破ったという説明でしたが、じつは義豊は、実尭たちを討ってすぐ義尭方に敗れて安房を追われていて、翌年安房へ進攻してきたのは義豊のほうでした。
原因についても、義豊が元服前の少年だったときに父義通が若くして死んでしまったため、遺言で義通の弟の実尭が後見人として政務をおこない、義豊が元服してから家督を譲るということになっていたのに、実尭が譲らなかったため義豊が実尭を殺して家督を奪ったように説明されていました。ところが義豊が生まれたとされてきた永正十一年(一五一四)の二年前には、義豊自身が高野山へ宛てて証文を出しているのですから、義豊は元服前の少年どころか法名や雅号を鎌倉の禅僧からもらうほどの年令になっていたのです。
それに義豊はこの事件の前にすでに家督を継いでいたこともはっきりしています。大永七年(一五二七)に房州鋳物大工を任命したり、享禄二年(一五二九)に鶴谷八幡宮を修造するなどは当主としての行為なのです。こうなると、これまでのように家督の継承をめぐるトラブルがこの事件の原因だったというわけにはいきません。では何が原因だったのでしょうか。
内乱の原因と実尭の実力
ひとつの可能性として考えられるようになってきたのが、里見氏が掌握している安房国内のさまざまな勢力が、義豊を中心とするグループと実尭・正木通綱を中心とするグループに分かれて対立するような状況になっていたのではないかという考え方です。
里見義実以来、里見家の安房支配を支えてきたのは、安西氏や丸氏などのように古くから安房に勢力をはっていた武士や、一色氏や師氏など足利氏の家臣としてその所領管理のために安房に入ってきていた武士たち、木曽氏のように里見氏草創期に活躍して取り立てられた武士たち、堀内氏や中里氏のような里見氏の一族などでした。里見義通や義豊が安房国主の地位になっていたとはいっても、まだ永正年間には、古河公方の重臣で関宿(千葉県関宿町)城主だった簗田氏が、公方高基から安房国内の土地を直接所領として与えられるなどしていて、里見氏がすべての安房国内の武士や土地を自由に裁量できたわけではなかったようです。
むしろそれぞれの武士たちは独立性がまだ強かった時期だったのでしょう。正木通綱などは長狭郡から朝夷郡北部にかけての外房に、里見氏の支配が及ばない独自の勢力圏をつくりあげていたようで、久保(千倉町)の上野氏や三原(和田町)の真田氏は正木氏の指揮下に入っていました。また金谷城を拠点にしていた里見実尭は、内房北部地域を対象に里見家の支配の一翼を担っていたため、海上支配を中心にやはり独自の勢力圏をつくりつつあったようです。
義豊にとって海上支配にのりだした実尭と正木通綱はとても脅威要を感じる存在になってきていたのでしょう。そこへ義豊政権への不満を持つ安房国内の武士たちが、実尭・通綱を中心にしてひとつの勢力にまとまってきたのではないかということが考えられています。義豊が権力の集中をねらってこうした反対勢力の粛正にのりだしたのが、この内乱の原因だったのではないかというものです。義豊による実尭・通綱の殺害は、正木通綱を討ったあと実尭に通綱謀反の責任を負わせて処罰したという経過のようです。これは正木通綱が義豊の反対勢力としての中心活動家だったということで、義豊を脅かすほどの正木氏の急速な成長があったのかもしれません。
一方義豊を支えた勢力はいったいどれほどあったのでしょうか。この内乱は最初の二ヵ月でほぼ帰趨が決し、翌年は真里谷武田氏の支援で態勢を立て直したのでしょうが、こちらはほぼ一日で決着がついてしまいました。この内乱の結果、前期里見氏を支えてきた一色・木曽・中里などの武士たちは、その後里見氏の歴史に名を登場させてきません。おそらく義豊とともに没落してしまったのでしょう。この内乱を通して家臣のなかにも力を失った勢力があったということです。
政権交替のいいわけ
天文二年(一五三三)の義豊による実尭・通綱殺害にはじまる内乱にあわせるように、当時義豊とともに小弓公方を支えていた川越(埼玉県川越市)の扇谷上杉氏が、八月中旬に品川などの江戸城周辺へ攻撃をしかけていました。もちろん上杉氏にとっては北条氏からの江戸城奪還が目的ですが、義豊のために北条氏への牽制をしてくれたともいえます。北条氏が義尭方に加勢しているのですから、義豊と上杉氏は利害が一致しているわけです。
義豊も義尭も、直接的にも間接的にも外部から軍事的な支援をうけているわけですが、当時の古河公方足利高基と小弓公方足利義明の対立には巻き込まれず、両公方や支援勢力がこの家督争いの収拾に介入してくることはありませんでした。内乱を勝ち抜いた義尭にとって、それは里見家の独立性を守るうえでは大きな意味をもちました。また義尭が武力で家督を相続したことは、内乱に参加した安房の武士たちにとっても重大な意味をもちました。この内乱をきっかけに義豊派は没落してしまい、義尭派は義尭の家臣となって独立性を弱めていったのです。正木氏も里見氏からの独立性は保っていたものの、対外的には義尭の家臣と見紛う立場になっていったのでした。こうして義尭の権威は高まり、これ以後の戦国大名としての里見氏の発展は、この内乱が生み出したと評価されているのです。 それにしてもこの内乱は、どうしてこんなにも事実と違う内容になってしまっていたのでしょうか。
この内乱は里見家内部の権力闘争でしたが、義豊政権が反対派勢力の鎮圧に失敗した結果、嫡流という前期里見氏の政権が崩壊し、結果的には庶流である分家の義尭が里見家の政権担当者になったのでした。こうした嫡庶の逆転は、儒教道徳を学び重んじている当時の武将にとっては、いくら下剋上の世の中とはいっても道徳や人格の崩壊にもなることでした。
そこで義尭は、家督相続が正当であることをアピールしなければならなかったのです。まず家督が義豊からの継承ではなく、義通からの継承であることを印象付ける作業が行なわれました。たとえば朝夷郡の丸氏一族が、文明十九年(一四八七)に夜盗のために火災にあった石堂寺(丸山町)の復興をするなかで、天文年間に多宝塔の建立をしたとき、天文十四年(一五四五)に義尭が中心となってその供養をおこないました。それは天文の内乱で討死した義豊たちを供養するものではなかったかと考えられています。そのとき義尭は、義通を先代の国主と記して義豊はその子とするだけでした。つまり義尭は義通から家督を継承したといっているのです。
さらに家督の継承を正当化するために、義尭あるいはその系統の後継者か関係者によって、前期里見氏の歴史に手が加えられていったのです。嫡流から庶流へ家督が継承されたのは止むを得ない事情だったということを記録するために、義豊を年少にしたてて、家督を譲らない叔父実尭を殺害したから、仇を討った義尭が家督を継承することになったという筋書きができあがったのでした。
義豊の子供たち
この内乱のことは里見氏の伝承を記録したなかでは細かく記されていて、里見氏の歴史のなかでも印象的で重大な出来事だったことがわかります。いまも郡内各地に戦闘に関する伝承が多く残されていますが、この内乱に関わった人々についての伝承もまた多く残されています。それは滅びた義豊派の人々に関するものがほとんどです。
たとえば、義豊の正室は南条城主(館山市南条)の烏山左近大夫時貞の娘だったと伝えられていますが、その正室は自害して南条城のふもとに葬られたといい、その場所に姫塚と呼ばれる五輪塔がいまも残されています。法号を一渓妙周大姉というそうで、姫塚の場所に一渓寺が建てられたと伝えられています。これはいま近くの館山市古茂口にある福生寺の前身だということで、福生寺には姫塚と別に義豊室の墓といわれる大きな五輪塔があります。
また義豊の側室には中里備中入道正端の娘と小倉民部定光の娘がいたそうで、正端の娘も自害したと伝えられています。定光の娘は朝夷郡五十蔵(和田町)へ逃れて義豊の子を生んだと伝えています。室たちの父はそれぞれ討死か自害を遂げたということです。
ところで、本来嫡流として家督を相続するはずだった義豊の子どもたちは、いったいどうなったのでしょうか。義豊の子どもはさまざまな系図を総合すると、正室の子に安房を離れて越後国中沢(新潟県長岡市)へ移った義員と、朝夷郡五十蔵で定光の娘が生んだ貞通がいたといいます。どちらもその後は里見家のなかでは歴史上で大きな役割を負うことはなかったようです。
その後の嫡流
ところが安房里見家の家督を継いだ義尭とは別に、嫡流としての里見家を継いだ義豊の子らしき人物がいたようなのです。つまり前期里見氏の家系です。それは永禄三年頃に里見民部少輔と呼ばれ、永禄六年(一五六三)には民部大輔と名乗った人物でした。里見義尭と同じ永正四年(一五〇七)に生まれています。義豊の没後、義尭が里見家を維持していくうえで、この人物の存在は内政外交両面にわたって大きな意味をもっていたようなのです。
そもそも民部少輔は安房里見家の嫡流である義実・義通が使っていました。義豊が使ったかどうかはまだわかっていませんが、使っていた可能性はあります。一方、義尭以後忠義までの後期里見氏が、民部少輔あるいは民部大輔を使うことはありませんでした。永禄年間に現われる民部少輔(大輔)が義豊の子ではないかという理由のひとつがそこにあります。あきらかに前期里見氏の家いいわけの人物といえるのです。
この民部大輔が外交的にはたした役割は、常陸国の菅谷氏から義尭・義弘父子へ披露という一種の仲介役をしてくれるように依頼されていたり、越後の上杉謙信からも里見家を代表する人物としてあつかわれたりと、里見家の顔となる役割があったようです。また内政的にも正木氏から特別丁重な扱いをうけたり、天正年間の義康の時代にいた民部大輔も、当主義康とならぶ扱いをうけたりと、里見家のなかで存在すること自体が大きな意味をもつ立場だったようなのです。
それにしても義豊の子どもだったとしたら、どうして生きのびることができたのでしょうか。しかもどうして当主なみの扱いをうける立場でいられたのでしょうか。それはおそらく天文の内乱
で義豊に敵対し、義尭に味方したからだろうと考えられています。義豊は父義通と対立し、やがて叔父実尭や正木通綱と組んで義通を隠居に追込み、その後実尭・通綱とも対立して粛正するものの、
自分の息子とも内乱のなかで分裂してしまい、最後は義尭に滅ぼされることになったのではないかというのです。この嫡流の民部大輔家は白浜城を拠点にしていたようです。隠居した義通も白浜城にいたと考えられるようになってきました。
白浜城は稲村城につぐ位置付けがあったとされていて、これは里見氏にとって白浜という土地がもつ意味の大きさを示しているようです。 |
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第二章 房総里見氏の誕生
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里見氏以前の安房 |
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里見氏、戦国の安房に現れる |
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封印された里見氏の時代 |
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里見家の政権交替劇 |
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第三章へ…… |
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