前期里見氏
 安房里見氏の歴代は、義実から忠義まで十代と数えられています。そのうち義実・成義・義通・義豊を前期里見氏と呼び、実尭・義尭・義弘・義頼・義康・忠義が後期里見氏と呼ぶことになりました。義豊から義尭に家督が移ったとき、里見氏の嫡流から庶流へと武力で家督が移動したからです。政変ともいえる出来事なので分けて考えるようになっているのです。それに里見氏の菩提寺が白浜町の杖珠院と三芳村の延命寺にあることはよく知られていますが、杖珠院は前期里見氏の菩提寺であり、延命寺は後期里見氏の菩提寺というようにはっきりと分かれていて、系統の違いはもともと認識されていたことなのです。
 ところで不思議なことに、里見氏の歴史は後期里見氏については当時の史料もあって分かることが多いのですが、義実を含めて前期里見氏については史料がほとんどなく、調べる手がかりがなくてわからないことばかりなのです。この違いには実は理由があったのでした。
 里見家の家督を継承した後期里見氏の義尭は、正当に家督を相続したのではなく、武力によって嫡流から家督を奪い取った庶流の家柄だったのです。そのため家督の継承を正当化するために、前期里見氏の歴史に手が加えられた可能性があるのです。それは 前期里見氏の歴史の証拠を消すことであり、嫡流から庶流へ家督が継承される止むを得ない事情があったことを記録することだったようなのです。
 江戸時代に里見氏の歴史を書こうとした人たちは、消されてしまった前期里見氏のことを正確に書くことはできなかったでしょう。

消された里見氏の実像
 現在、二代目といわれている里見成義(義成ともいわれています)はいなかったのではないかと考えられるようになってきています。里見義実の子息は成義ではなく、「義」をもらった義通と、「実」をもらった実尭の兄弟ではないかというのです。義通の子義豊も若くして死んだように言われてきましたが、実は壮年の年代にはなっていたようだということが分かってきています。義豊を若年として記録するために成義が歴代に挿入されたかもしれないというのです。いたかいないかは別問題としても、系図上の人間関係に手が加わえられたかもしれません。前期里見氏については、事実とはまったく違う歴史が伝えられていたのは間違いないようです。さらに後期里見氏の始祖で四代目といわれていた実尭についても、義豊を後見したわけでもなく、当主にもなっていないことがはっきりしているので、もう歴代のなかには加えるべきではないようです。
 里見氏の歴代当主は全部で九人あるいは八人になるかもしれません。つまり里見氏十代ではなく里見氏九代あるいは里見氏八代ということです。歴代の系譜が違い年令も違ってくれば、その人にまつわる経歴や事績なども違っていたことがたくさんでてくることになります。しかしそれを正しく知るには当時の文書や記録などの手立てが少なく、とても難しい状況ですが、これからも研究が進められて明らかにされていくことでしょう。
 そこでいま、前期里見氏の歴史を復元する手立てとして残されているのが、文書や文献などの記録だけではなく、里見氏がいた時代の遺跡なのです。当時の人々の生活や活動の痕跡である遺跡を中心にして、それをもとに数少ない文書や文献などの記録を有効活用することで、前期里見氏の歴史を復元しようという手立てです。そしていま注目されているのが戦国時代の城跡とその立地する環境なのです。

白浜城と稲村城
 前期里見氏の時代に、里見氏が根拠地にした城が白浜城(白浜町)と稲村城(館山市)です。白浜城は、上杉氏が海上交通支配のために安房国で勢力圏として確保した朝夷郡のなかでも、その拠点の湊とした白浜を管理し、地域支配の役割をもつ城だったといえるようです。里見義実は、その白浜を現地で管理していた木曽氏を寝返らせることで掌握し、海上交通を支配するためにそのまま拠点として使い続けたようです。しかし白浜がいつ上杉氏から里見氏の勢力下に置かれたのかはまだわかっていません。
 現在ある白浜城跡は戦国時代前期の古いつくりをしています。前期里見氏の時代には重要な拠点としての役割があったようですが、その後は戦国時代を通じて、戦闘に巻き込まれて改造しなければならないような緊張した状況が、白浜には生まれなかったということなのでしょう。それにしても白浜城は、海に面して東西にのびる丘陵を一キロにもわたって利用しているのです。海に面した南側の急斜面はそのままにして、北側のゆるい斜面を階段状にして平坦地をつくっているだけの単純な構造ですが、その数はとても多く大規模な城だということが城わかります。そのことからも白浜が重要な場所だったのだということが理解できます。
 里見義実は、足利成氏が下総古河へ移り、上総に武田信長が入ってきた康正二年(一四五六)には、すでに稲村城に拠点を移していたようです。稲村城は安房の国府に近く、安房国の足利派勢力を結集するのには都合がよかったということなのでしょう。安房の役所の機能をもつ国衙を利用することも必要だったのかもしれません。南北朝時代に鎌倉府の指示を現地で執行する役割をもっていた丸氏や、平安時代から国府の役人で国府周辺に勢力があった安西氏などが、この時期にも国衙に影響力があったとすると、里見義実が安房を取りまとめるにあたって安西氏や丸氏は重要なパートナーになったことでしょう。前期里見氏の時代に安西氏が里見氏の重臣として扱われているのはそのためかもしれません。
 安房国の首都である府中は平久里川河口の湊にも近く、流通の中心であったとも考えられています。稲村城はその府中に近いことはもちろん、交通のことを考えても、安房国を南北に縦断する平久里から府中そして白浜まで通じる道と、内房と外房を半島の最もくびれた部分で東西に横断する道の交差点にあたります。また稲村城の下を流れる滝川が、当時は入江のようになっていた平久里川河口から舟で入り込むことができたということも考えられています。さらに城のふもとに広がる館山平野は、古代から水田がつくられてきた生産力の高い地域ですが、その生産力を維持する水が稲村城下の滝川に集まってくるため、水の管理をするうえでも重要な場所だったようです。そのような稲村城の立地を考えると、府中をふくめた館山平野と鏡ケ浦を一望できるこの城は、さまざまな要素をふまえて選ばれたことが分かります。安西氏などの協力を得て安房国の指導者となる目星がついてこそ、はじめて取り立てることができた城だったということでもあるようです。

稲村城跡
この城も白浜城跡と同じように戦国時代前期の古いつくりをしています。城山と呼ばれる中心部には、土塁・堀切り・土橋・登れないように垂直に切り立てた崖(垂直切岸)・尾根先端の切断(切岸)・階段状の小さな平坦地(腰曲輪)などがつくられています。いろいろな工夫がありますが、戦国時代の後半になって改造したような新しい技巧はみられません。それは前期里見氏の時代にだけ本拠地として使われ続けた城だったことを物語っています。
 さらに頂上の平坦地は、山を削って平らにしただけでなく、三分の一は土盛りをしてわざわざ広げているもので、版築技法という当時としては全国的にみてもめずらしい高度な土木技術がつかわれていました。それは狭い山頂を強引に広げてまでも、里見氏がなんとしてもここに拠点になる城がほしかったことをしめしているそうです。里見義実が安房全域を勢力下におくうえでの稲村城の重要性が土木技術にも表れているわけです。
 稲村城というのは城山とよばれる丘陵だけではありません。その南につながる細い尾根すべてにもたくさんの平坦地がつくられています。これらが中心部になって東西五百メートル、南北五百稲メートルの大きさがあります。さらにこの丘陵を翼を広げて包むように東西から張り出している丘陵にも手が加えられていて、これが中心部を守るかたちになっています。その内側には城主里見氏の居館や重臣の屋敷そして水田も確保されているのです。この丘陵まで含めると東西二キロ、南北一.五キロという大きな城になり、そうすると稲村城はただの山城ではなく、里見氏が館山平野を掌握して安房国全体を統治するための城だったことが、稲村城跡という遺跡とその立地環境からもわかるようになってきたのです。さらに遺跡調査がすすんでいけば、前期里見氏について少しづつ明らかにしていくことができるようになるでしょう。

安房の国主里見義通
 文明三年(一四七一)に下総国本佐倉へ足利成氏の救援に向かって以来、里見氏についての記録はみえなくなってしまいます。そして次に姿を現すのは永正五年(一五〇八)になってからのことで、その間三十年の里見氏の歴史は現在のところまったく不明です。ただその間に里見義通が足利氏の祈願寺である鑁阿寺(栃木県足利市)に祈祷を依頼していることが知られています。古河公方を主人として仰ぎ続けていたのは変わらなかったようで、永正五年には成氏の子政氏に従っていました。
 そしてその頃には里見義通が、安房の国主といわれる立場になっていました。義通についても詳しいことはまだ明らかになっていません。生没年も享年もわかっていません。ただこれまで、永正十五年(一五一八)から大永元年(一五二一)の二月に三十八歳で没したなどといわれていましたが、永正十七年六月での生存が確認されていますし、大永四年八月に生存していた可能性もあります。あるいはさらにそれよりも後の享禄年間まで生存していた可能性も指摘されるようになってきました。没年はこれまでの説よりも遅くなりそうです。それに鑁阿寺への祈祷の依頼が十五世紀の末ではないかともいわれているので、義通の家督相続はかなり早い時期に行なわれていて、生まれもはるかに早まることも考えられるようになってきています。
 いずれにしても義通のときには安房の支配者になっていました。里見義実がはじめ公方の権威をかりて、足利派の武士やそのほかの国内武士たちを軍事的に統率動員するだけだった立場から、安房国の統治者へと成長していたということです。

鶴谷八幡宮の造営
 永正五年、義通は安房国北条郷(館山市)の鶴谷八幡宮を大旦那として修復しました。この神社は安房国内の有力な神を集めて祀った総社で、もとは国府があった府中(三芳村)に国府八幡宮としてあったのが、鎌倉の鶴岡八幡宮を意識して海に面している北条郷に移されたものです。この総社を大旦那という主催者になって修復するということは、里見氏が安房国を代表する立場になっているということなのです。総社の修復は国の役所である国衙が国支配の象徴として行なうもので、義通がその伝統を受け継いでいるわけです。このときナンバー2の正木通綱が国衙奉行という役人の役職で祭祀を取り仕切っていました。
 さらにこの神社の修復をするということは、政治的な面で国衙の伝統を受け継いでいるというだけではなく、信仰をとおして国内に暮らす人々の精神世界でも、里見氏が存在感を示していることのあらわれだといいます。その精神世界の支配のために、鶴谷八幡宮を管理する那古寺(館山市)の住職(これを那古寺別当あるいは鶴谷八幡宮別当といいます)にも、里見家の人物が送り込まれているのです。那古寺二十一世住職の義秀は義通の弟だといい、二十三世の熊石丸義弁は義豊嫡子の弟だろうと考えられています。里見氏の当主とその弟が両輪となって、安房国の聖俗両方の世界を支配していたというのです。
 実はこうしたことは、足利氏が関東を支配するかたちとして取り入れていたことで、政治の世界での公方とともに信仰の世界には鎌倉鶴岡八幡宮の別当である雪下殿がいて、 その地位には足利家から公方の近親者がついていたのです。雪下殿は鶴谷八幡宮をも支配下にいれていたので、里見氏はそのかたちを安房国の支配に取り入れていたのでした。義秀を那古寺別当にしたのはその父里見義実でしょうから、信仰世界の支配が安房国支配にとってたいせつなことを義実は知っていたわけです。
 義通はこの修理にあたって足利政氏の副帥であると自称しました。これは自分が古河公方の代官であるということで、公方政氏のために八幡宮に祈りを捧げたのだということを意味しています。そして里見氏による安房国の統治が、公方の代官による正当な統治だということをアピールするものでもあったのでした。
 そしてこの義通を軍事的に支えたのが弟の実尭でした。永正十一年(一五一四)六月、義通は北郡へ軍勢を送り込みました。どのような対立勢力があったのかはわかりませんが、安房・上総両国にわたる大乱があって、北郡に討ち入りをかけたのです。実尭を副将として妙本寺(鋸南町)に兵を駐屯させ、翌年三月には妙本寺に城を築いて軍代として実尭に守らせています。妙本寺周辺の水軍には正木氏が大きな影響力をもっていたのではないかと考えられています。その正木氏と結びついて実尭が水軍を統括する立場にあったようなのです。実尭は安房上総国境の金谷城(富津市)を居城にして水軍を操り、内房の北郡を支配領域にしていたようです。

足利家の分裂
 ところで、古河公方足利氏と関東管領上杉氏による享徳の大乱に引き続いておきた上杉一族内部の抗争は、やはり十数年に及ぶ動乱となり、ようやく永正二年(一五〇五)に終わりました。これで古河公方足利政氏と関東管領上杉顕定という体制に落ち着くかにみえたのですが、上杉氏が争乱を起こしているあいだに、その足元の領国伊豆から北条早雲が勢力を伸ばしていたのです。伊豆国を奪い、小田原城(神奈川県小田原市)を取り、相模国へ進出をはじめ、そして古河公方家内部に激震を走らせることになりました。上杉氏との関係を修復した政氏に対し、その嫡子高基は上杉氏の所領を侵食しつつあった北条早雲と結びついてしまい、永正三年には公方家内部が分裂、権力闘争へと発展してしまったのです。
 もちろんその分裂は、公方家の近臣や公方に属していた武将たちの家にも深刻な影響をおよぼしました。公方を最も近くでささえた有力な側近簗田氏は両派に分裂し、管領山内上杉家でも両派への分裂対立がはじまり、宇都宮氏でも内紛がおこりました。永正九年(一五一二)には高基が実力で古河公方の地位を継承しますが、政氏との対立は永正十三年頃まで続きました。さらに永正十五年(一五一八)になると、高基の弟義明が上総の真里谷武田氏の要請で下総国小弓城(千葉市)に入り、房総でひとつの勢力を築きあげて高基と対立するようになったのです。房総には足利氏の所領が多いため支える家臣もあり、さらに武田氏の支援だけでなく、下総の臼井氏、常陸の小田氏、武蔵の佐々木氏、そして安房の里見義通もその勢力下に加わりました。この足利義明を小弓公方といいました。

公方家分裂の余波
 当時、隣接する地域では領主どうしの所領の奪い合いがあり、各家では主導権をめぐる内紛がおきている時代でした。このようにして公方家が分裂をおこすと、お互いにどちらかの派へ分かれて属し、優勢を勝ち取ろうとするわけです。それが公方家の分裂を支えることになりました。当然里見氏も無関係ではいられなかったようです。
 永正九年(一五一二)に義通の嫡子義豊が、高野山の舜教院(和歌山県高野町)に対して房州の人々を旦那にすることを認める宿坊契約の証文を出しているのですが、これは里見家の当主としての行為にあたるものです。もちろんこの年に義通は健在ですし、この後も房州屋形として軍を指揮し、国主として那古寺の梵鐘製作を命じています。つまりこの時期の里見家は、義通で一本化していなかったようなのです。それは公方家では公方とその継承予定者が同じ内容の文書を出す慣例があったように、里見家でも公方家の体制をまねたのか、あるいは当主としての権力を誇示しあって張り合っていたということなのでしょう。張り合いとなると里見家の内部が分裂の様相をみせていたということになります。この永正九年は足利高基が父政氏を古河城から追い払って家督を相続し、古河公方になった年でした。つまり政氏に従う義通に対して、若い義豊は高基を支持して張り合っていたのかもしれません。
 しかしすぐには義豊が義通から家督を奪うことはなかったようです。足利義明が房総に拠点を築いて古河公方高基と対立すると、義通は里見家当主として小弓公方となった義明に属し、永正十七年(一五二〇)には千葉一族の臼井氏とともに、古河公方派の下総本佐倉城の千葉氏を攻撃し、さらに古河公方のいる古河城の防衛拠点関宿城にまで出陣しようとしていました。

北条氏の江戸進出
 義明は天文七年(一五三八)に国府台合戦で討死するまで高基との対立を続けました。真里谷武田氏も里見氏も義明を支え続けていたのですが、その間に東京湾をめぐる状況が大きく変わりはじめていました。それは上杉氏の支配地域を侵食していた北条氏の急激な成長でした。小田原から鎌倉への進出、そして永正十三年に三浦半島の三浦氏を滅ぼして相模国を平定してしまうと、いよいよ次は武蔵への進出を遂げようとしていたのです。
 北条氏は足利高基を軍事的に支援していたようですが、真里谷武田氏とも結びつきがあって小弓公方からも援軍の要請をうける関係でした。また北条氏もそうした関係を足掛かりに東上総への進出もはじめていました。とはいえ、公方家をめぐる内乱には部外者として直接の関与はしなかったようです。ところが房総の諸勢力にとっては一大事件といえる、北条氏を脅威と感じる事態がおこったのです。それは大永四年(一五二四)に、扇谷上杉氏が武蔵支配の拠点にしていた江戸城を北条早雲の後継者氏綱が攻略したことでした。
 江戸城は太日川(江戸川)などの関東平野の大河川が注ぎ込んでくる東京湾の奥にあり、東京湾の海上交通はもちろん河川交通を支配する拠点でもあったのです。江戸の城下ともいえる品川は物資の集散地として栄えていた湊で、江戸城の掌握は東京湾の交通や物資流通の支配が北条氏の手に移ったということでもあったのです。つまり房総の勢力と利害がぶつかりあう存在になったわけです。北条氏は房総の勢力にとって危険な存在として急速に浮かび上がってきたのでした。川越城(埼玉県川越市)に後退した扇谷上杉氏は、その後武蔵を中心に北条氏との攻防戦を繰り返します。真里谷武田氏の当主武田恕鑑は上杉氏と連携して翌年に北条氏との関係を断ち、対決姿勢を示しました。北条氏と上杉氏の直接対決は、古河公方−北条氏の連合と小弓公方−上杉氏の連合との対決へと移っていくことになります。

北条氏との初対決
 里見氏も武田氏と同様に北条氏との対決姿勢を打ち出すとになりました。大永六年(一の初対決 五二六)五月には、武田・里見の両軍が江戸城下の港湾都市品川に攻撃をしかけています。
これは東京湾の主導権をめぐる対決のひとつで、この頃には拠点になる湊での攻防が数多く展開したことでしょう。この年の暮れに里見義豊が鎌倉を攻撃して鶴岡八幡宮に乱入したといわれているのもその一環で、十一月の上杉氏による玉縄城(神奈川県鎌倉市)攻撃と連動しているものでした。里見氏にとっては、これが東京湾をめぐる北条氏との長い戦いの始まりになったのです。
 この頃の鎌倉鶴岡八幡宮にいた快元という人が、里見義豊が八幡宮に馬の鼻を向けて狼藉を働いたと非難したことがありました。これは義豊が鎌倉に軍勢を入れて街中を戦場にし、八幡宮を破壊放火していったことを言っているのです。鎌倉を支配下に収めていた北条氏綱は、天文元年(一五三二)、関東の武家の信仰があついこの八幡宮の再建を計画しました。そして多くの人々の協力を得るため、敵味方の区別なく、翌二年には上野・武蔵の上杉方諸将や房総の真里谷武田氏や原氏、そして破壊した当人である里見義豊にも協力要請をしています。これらはみな北条氏にとっては敵地ですが、氏綱は対立する小弓公方に使節を送ってまで協力を要請したのです。義豊はもちろん敵地の諸将たちは拒否を通告しました。鶴岡八幡宮の再建はそもそも公方・管領が主催するものですから、氏綱が行なうことに協力するということは、北条氏を上杉氏の後継者として認めることになるからでした。

里見義豊の家督相続
 義通の嫡子義豊が正式に家督を継いだのは、義通の死去をまつことなく、義通が隠居することで成立したと考えられるようになってきています。その時期はまだはっきりしていませんが、義豊は享禄二年(一五二九)六月に、義通のときと同じように古河公方の代官である副帥という立場で鶴谷八幡宮の修理を行なっています。この時には家督を継いでいたということになります。それ以前の大永四年(一五二四)八月にも稲村城に程近い大井大明神(館山市手力雄神社)の修理をしています。このときは義通が大旦那でしたが、事実上義豊が主催をしているもので、その頃には義豊に権力が移りつつあったということでしょう。そしてその間の大永年間の末から享禄年間にかけて、義通は稲村城を出て白浜城へ移ってしまったようです。つまり義通は隠居となり、稲村城は義豊の時代になったということです。
 大永七年(一五二七)十二月にも義豊が当主としての文書を出しています。上総国矢那郷(木更津市)というところに、古河公方や雪下殿から関東の鋳物師たちの棟梁という立場を承認されていた大野家があったのですが、この年、義豊は大野大膳亮に房州の鋳物職人の統括責任者の地位を与えました。義通と義豊が当主としての地位を競ってはじまった二頭政治が続いていた時期かもしれませんが、もう義豊がこの頃には家督を継いでいたのかもしれません。
 この義豊については少しづつその輪郭が見えはじめてきました。今まで義豊のことではっきり分かっていたのは、天文二年(一五三三)におきた里見家の内乱で、叔父実尭を殺害して翌年に実尭の子義尭に討たれたことです。没年が天文三年四月というのは間違いありません。ただ享年が二十一歳といわれてきましたが、そんなに若い人ではなかったようです。永正九年(一五一二)に父義通と当主の座を張り合って高野山へ証文を出しているのが、死の二十二年前のことですから、死んだときの年令は相当加算されるはずです。それに義豊に永正四年(一五〇七)生まれの子息がいた可能性もでてきているので、少なくとも享年は五十歳前後になっていたことになります。

房州の賢使君
 義豊についてはさらに明らかになったことがあります。また従来のイメージとは違う人物だったことがわかってきました。それは鎌倉にいた禅宗の僧侶と義豊との交流の資料から、まったく違う義豊の姿が現われてきたのです。
 その僧侶は玉隠英 といいます。鎌倉にある臨済宗の明月院や建長寺の住職を務め、大永四年(一五二四)八月に九十三歳で没した人物です。義豊はじめ古河公方や関東管領、扇谷上杉家の家宰太田道潅などの帰依をうけて、戦乱で荒廃した鎌倉の寺社の復興に活躍しているほか、同じ時期に文芸活動をしていた禅僧の万里集九とも親交があって、鎌倉の中世文化を担った能文家として知られる当時の一流文化人でした。
 義豊はその玉隠和尚に、法名と雅号を付けてくれるように依頼をしたことがあります。そして贈られたのが「長義」という法名と「高巌」という雅号でした。これは義豊の戒名の「高巌院殿長義居士」として知られています。実際に戒名に活かされているわけですが、この時義豊は玉隠和尚からさまざまな賛辞ももらっています。政務のあいだに孔子や孟子の学問に励み、孫子と呉子の兵法書を学び、和歌・吟詠にも通じ、古今の多くの人の書を集めて文字もよくする、まさに文武を兼ね備えた、この乱れ汚れた時代稀に見る貴公子だ、といわれているのです。もちろんお世辞入りで美辞麗句を並べているのでしょうが、鎌倉を代表する文化人玉隠との親交は、その玉隠を通じて当時の多くの教養人との交流に広がっていたことでしょう。義豊自身も日頃から学問の師匠になる人物が身近かにいて、教養を身につけて玉いたはずです。玉隠と関係のある安房の禅僧も多くて、大神宮郷(館山市)大昌寺の楽山和尚、龍樹院(館山市布良か)主人、東光寺(館山市布沼か)の等満、海幢庵の長杯上人、房州生まれの等胤上人などがいます。こうした人々と里見氏とのつながりはわかりませんが、里見氏の周りには学問のある禅僧たちがいたことでしょう。戦国時代の武将とはいえ決して勇猛なばかりではないということです。
 またそうした禅僧たちを通して中国の古代思想なども学んでいたようで、子供の名前や自分の法名などの付け方にも反映され、それはまた地域や家臣、民衆を支配するときの君主としての姿勢にも反映されていたことでしょう。ただ不満や血気にはやって叔父を殺害したわけではないのでしょう。
 玉隠和尚は義豊を房州の賢使君と呼びました。賢使君の「使君」は、ここでは古河公方の代官としての安房国の国主を意味していますが、それに「賢」をつけて君主として優れていることを表現しています。これも美辞ではありますが、そもそも名声も位も家柄も身に備わっているのだから、あとは道徳が必要で、さらに徳を積んで聖賢をめざすようにと、玉隠は義豊に説いています。そこには君主としての規範を学ぶ義豊の姿があるのです。

第二章 房総里見氏の誕生

里見氏以前の安房
里見氏、戦国の安房に現れる
封印された里見氏の時代
里見家の政権交替劇
第三章へ……