関東戦国時代の幕開け
 関東の戦乱は鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の対立から拡がっていきました。鎌倉公方は歴代が将軍の座をねらっていたため、将軍家と対立することが多く、関東管領はそれを諌める立場にあって、なかには京都攻撃をやめさせるために死を選んだ管
領もいたほどです。
 応永十六年(一四〇九)、鎌倉公方が四代目の足利持氏の代になると、幕府への反発は激しいものになっていました。ことごとく京都の指示に従わなくなるのです。元号が正長から永享にかわっても新しい元号を使わない、鎌倉公方の嫡子は将軍の名から一字を貰って名付けるのにそれを拒否する、将軍が富士遊覧のためにすぐそばの駿河まできたのに挨拶にいかない、それどころか関東にいる将軍派の武士を滅ぼす、元南朝方の人物を扇動して挙兵させる、管轄外の信濃へ出兵しようとするなど、将軍を挑発する行動を続けていました。
 幕府も将軍が対鎌倉強硬派の足利義教になると、鎌倉公方を滅ぼそうとして、京都御扶持衆とよばれる将軍派の関東の豪族や反持氏の関東足利一族たちに働きかけ、持氏を刺激します。二人のあいだにはさまった関東管領の山内上杉憲実は、問題が起こるたびに京都と関東の対決を極力回避しようと努めてきました。しかし安房国内で起こっていたような所領をめぐるトラブルもあり、憲実の努力はやがて持氏の不信へと結びつき、永享十年(一四三八)、ついに持氏は憲実の排除にのりだしました。憲実は幕府に救援をもとめて持氏との対決を決意、領国の上野国に引き上げると、両者の対立は軍事行動に発展しました。将軍義教は持氏討伐の勅許まで得て、鎌倉公方の討滅にうごきだしたのです。
 永享の乱といわれる持氏討伐の計画は、上杉憲実と幕府の連携で事前に周到に準備されていました。そのため持氏を支援した豪族たちはつぎつぎと寝返り、翌年、持氏は鎌倉の永安寺で自害、側近だった里見刑部少輔家基もこのとき自害するのです。この乱で鎌倉公方による関東支配は事実上終わりをつげます。嫡男義久はこの乱で自害、ほかの子供たちは各地の持氏派を頼って落ちのびていきました。
 しかし持氏の滅亡は、幕府の勝利として終わることにはなりませんでした。上杉氏に従わない勢力は多く、主を失った関東は混乱へと陥っていきます。それは足利派と上杉派の対立へと発展していくことになったのです。

結城合戦
 永享十二年(一四四〇)三月、鎌倉を落ちた持氏の遺児のうち、三人が下総国結城(茨城県結城市)の結城氏朝のもとで反幕府・反上杉の勢力を結集して立ち上がりました。結城合戦とよばれる篭城戦で、結城方に参加したのは下野国の宇都宮氏・小山氏・那須氏、常陸の佐竹氏
・宍戸氏・小田一族の筑波氏、上野国の岩松氏・桃井氏、信濃国の大井氏などで、包囲軍には上杉一族や上杉氏が統制する安房・上総・上野・越後などの軍勢、下総の千葉氏、信濃の小笠原氏、甲斐の武田氏ほか幕府軍がおり、そのほか宇都宮氏・小山氏・那須氏・佐竹氏・小田氏・岩松氏などもいました。つまり北関東の諸氏は一族が分裂、両派に分かれて合戦に参加していたのです。これは当時全国的に、一族を束ねる惣領家と独立をはじめた庶子家との対立があったからで、社会の仕組みが大きく変わってきていた時代だったからでした。そして一族内の対立も足利派と上杉派にわかれての対立というかたちになって、関東全体を巻き込んだ戦乱へと拡大していったわけです。
 さてこの結城篭城軍のなかには里見修理亮という人物もいました。結城は常陸に所領を持つようになった里見刑部少輔家基や里見四郎などがいた常陸国宍戸荘とは目と鼻の先で、宍戸荘に所領をもっていた宍戸氏や竜崎氏・筑波氏なども篭城に加わっていました。ここはもともと鎌倉公方の側近だった奉公衆が所領を与えられて入り込んできた地域でした。常陸国西部や下総国の結城周辺には奉公衆が多く、ここから結城篭城に赴いた公方旧臣たちが大勢いたわけです。持氏の遺児が最初に挙兵した場所も、宍戸荘に隣接する中郡荘木所城(茨城県岩瀬町)でした。篭城していた里見修理亮も宍戸荘に所領をもっていた奉公衆の里見氏だったのでしょう。
 結城城は八ヵ月に及ぶ篭城戦ののち翌嘉吉元年(一四四一)に落城して、多くの将士が討死しました。京都まで送られた結城方の首は十六人。内訳は結城氏朝はじめ結城一族が四人、小山一族が三人、足利一門でありながら結城方大将格の桃井憲義とその一族が四人、下野の有力豪族で惣領と対立を続けていた庶子の宇都宮氏一人、鎌倉公方の側近だった今川氏・一色氏・木戸氏各一人、そしてそのなかに里見修理亮の首もありました。それは修理亮が篭城軍のなかでも主力であるとともに、上洛に値する家格の人物だったということです。つまり足利氏と同族の里見氏は関東足利氏の御一家に準じるという格付けがあったのです。里見修理亮も鎌倉公方側近の奉公衆であり、家基なきあとの里見一族のリーダー格だったということでしょう。

公方の復活
 結城合戦に敗北しても反上杉の動きは収まりませんでした。持氏の遺児を失って反幕府の色彩はなくなりましたが、各地に残った対立の火種は反上杉というかたちでくすぶり続けていました。結城合戦直後から翌年にかけて、結城方だった常陸守護の佐竹義憲や常陸国宍戸荘の宍戸持里などは、関東を支配する上杉氏に対して反乱をおこしています。また文安元年(一四四四)には相模国で公方近臣だった一色伊予七郎と上杉方の合戦があり、同四年には上杉氏のお膝元の上野国でも合戦がありました。こうした個々の勢力は、反上杉派の総帥としてまた関東の主としての足利氏の血をどうしても必要としていました。残された持氏の遺児の受皿はなくなりはしなかったのです。
 結城合戦に敗れた持氏の遺児のうち二人は幕府によって殺害されましたが、持氏にはほかにも六人の子がありました。第五子の万寿王丸(成氏)は永享の乱ののち信濃国佐久の大井氏のもとに隠れ、第六子の乙若君(定尊)は結城合戦で捕らえられたものの命を助けられて、美濃国守護土岐氏の京都の屋敷に預けられていました。そのほか第七子の尊 、そしてもうひとり成氏の兄が美濃にいたといいます。そのなかから成氏が関東足利氏の家督を継ぎます。
 文安四年(一四四七)、八年の時を経て鎌倉公方は復活しました。信濃の大井氏のもとにかくまわれていた成氏が幕府の許可を得て鎌倉にもどったのです。足利氏がいなければ関東は収まらないのです。関東管領には父を殺した上杉憲実の子憲忠が就任します。新公方の近臣には簗田氏・野田氏などの持氏の旧臣や、小山氏・小田氏・宇都宮氏・千葉氏・那須氏などの上杉氏には従わない北関東の古くからの豪族たちが集まってきました。

伝説の人義実登場
 そのなかには安房から駆け付けた里見左馬助義実の姿もありました。成氏がこのとき左義実登場 馬頭ですから、左馬助の義実は側近中の側近ということでしょうか。義実は成氏が鎌倉に復帰した頃にはすでに安房に拠点をもっていたようで、その時は上総方面の上杉方を牽制しながら成氏のもとへ出仕しています。鎌倉に出仕した義実は、鎌倉時代の御家人里見義成と同様に、鎌倉公方が鶴岡八幡宮に参詣するときに剣をささげる役を勤めています。里見家にとって鎌倉以来の伝統なのでしょうか。いずれにしても成氏にとっては大切な側近と考えられる人で、『鎌倉大草紙』という本では、鎌倉公方に就任した成氏のもとへ旧臣たちが集まってくる記事のなかで、「持氏の御供に討死しける里見刑部少輔家基が子左馬助義実は房州より打て出、上総半国を押領し鎌倉へ参」るというように、義実の紹介を記事のトップにもってきているほどです。
 さらに近臣のなかには結城合戦の首謀者結城氏朝の子成朝も加わります。これには上杉氏重臣の長尾氏や太田氏の猛反発があり、鎌倉府内部ははじめから対立の火種を抱えた組合せといえるものだったのです。
 両派の対立は安房国でもすぐにみられました。成氏が公方に復活する以前の文安元年(一四四四)にあった足利派一色氏と上杉方の合戦で、扇谷上杉氏の家臣恒岡越後入道が討死したのですが、五年も後の宝徳元年(一四四九)になって、子息の源左衛門尉は父討死の恩賞として安房国朝夷郡久保郷(千倉町・丸山町)を与えられています。その恩賞の地は足利氏の家臣上野弥太郎が所領にしていたところだったのですから、成氏の鎌倉復帰後早々に、朝夷郡の所領をめぐって両派がしのぎを削る姿がみられるということです。
 これ以前から、永享の乱や結城合戦で敗北した足利派の人々は上杉方に所領を奪われていたため、それを実力で回復しようとする動きがはじまり、新しい所領を獲得した上杉派は当然それを守ろうとするわけですから、所領をめぐるトラブルが各地で頻発してくるようになっていました。

古河公方の誕生
 翌宝徳二年(一四五〇)になると両派の対立は鎌倉での武力衝突に発展しました。
 関東管領山内上杉憲忠の重臣長尾景仲と扇谷上杉顕房の重臣太田資清が、なんと鎌倉公方成氏の館を襲撃したのです。成氏は房総半島へ避難することも考えて江の島へ逃れました。江の島合戦とよばれるこの事件は幕府の調停で形式的には和解しますが、その後両派の対立はますます激しくなりました。
 こうして両派の対立は次第に深みにはまっていき、享徳三年(一四五四)の暮、とうとう成氏は里見義実をはじめ武田信長・結城成朝などの側近を率いて鎌倉にいた関東管領上杉憲忠を襲撃し殺害してしまいました。年が明けて康正元年(一四五五)になると上杉氏との本格的な合戦の連続となり、これ以降足利派と上杉派が関東を二分する争乱の時代へと入っていくことになります。里見氏は鎌倉を逃れた上杉勢を追って武蔵分倍河原(東京都国立市・府中市)、騎西(埼玉県騎西町)などを転戦しますが、分倍河原では里見一族の者が討ち取られて京都に首が送られています。成氏は逃げる上杉勢を追って下総国古河(茨城県古河市)に入り、両派の境界でなおかつ河川交通の要に位置するこの地を上杉派との対決の拠点にしました。以後成氏は鎌倉にもどることなく古河公方と呼ばれることになります。

享徳の乱と房総
 その頃の関東は、越後・上野・武蔵・相模・伊豆など関東の西半分が、各国の守護を務める上杉氏の勢力圏になっていて、一方、上野東部・下野・常陸・下総などの関東の北から東にかけての地域が反上杉勢力が多く分立する地域でした。そしてその地域の勢力が上杉氏に対抗するために鎌倉公方を中心に団結することで、足利氏の勢力圏になっていたのです。
 そして上総や安房というところは、もともと足利氏の所領が多くあって、足利氏の家臣が所領管理のために数多く入り込んでいたところだったのですが、両国ともに上杉氏が守護になった時期があり、それ以来上杉氏は着々と房総に影響力を広げてきていたようなのです。両派の緩衝地帯であり、競り合いの地域でもあったことでしょう。
 両派が本格的な合戦状態となって対立すると、房総の確保が足利派にとって重要な課題になってきます。足利派にとってこの房総が上杉派の勢力圏に組み込まれることは、東京湾の海上交通路を封鎖されるに等しいことにもなるわけで、なんとしても足利氏の勢力圏として確保する必要がありました。そこで房総の足利派を結集して上杉派に対抗するために、成氏は側近であり足利氏とは同族の里見民部少輔義実に安房での勢力取りまとめの役割を与え、同じ側近の武田信長には上総で同じ役割を与えたのです。
 そして康正二年(一四五六)になると武田信長が上総に乗り込んで上杉派の攻略をはじめ、里見義実もそれに呼応して上総との国境付近にある上杉勢力の駆逐にのりだしました。里見氏は稲村城(館山市)を拠点に安房国の足利勢力を結集し、武田氏は西上総の真里谷城(木更津市)と東上総の庁南城(長南町)を拠点に足利勢力を結集しました。里見氏と武田氏は連携して房総からの上杉勢力の排除に乗り出していったわけで、両者は武田信長の娘と里見義実が結婚して姻戚関係となることによっても結びついていきました。
 その後も里見氏と武田氏は、古河公方足利成氏のために働きます。そして足利派と上杉派の対立はますます激しくなっていき、両派の前線になった武蔵国では、上杉派は江戸城(千代田区)・川越城(埼玉県川越市)・岩付城(埼玉県岩槻市)・五十子陣(埼玉県本荘市)を整備、足利派は古河城はもちろん騎西城(埼玉県騎西町)・関宿城(千葉県関宿町)・栗橋城(茨城県五霞村)を整備して、武蔵と下総の国境付近を中心ににらみあい、また合戦を繰り返しました。しかし文明三年(一四七一)、上杉勢の攻勢に成氏が古河城を退去して、千葉氏の拠点下総国本佐倉城(千葉県酒々井町)に逃れたことがあります。下総に近い上総の武田氏はもちろん安房からも里見氏が成氏のもとへ駆け付けました。
 翌年成氏は古河へ復帰することができ、やがてこの大乱は上杉氏の内部分裂をきっかけに和睦へと向かい、文明十年(一四七八)に足利氏と上杉氏は約二十年ぶりに和解しました。しかし続いて大勢力の上杉氏内部の抗争がはじまり、その間に南から新しい勢力北条早雲が現われて、関東はさらに戦国乱世へと突き進んでいったのです。

里見義実の役割
 これまで里見義実は、結城合戦で討死した里見修理亮の息子で、修理亮とは里見家基とされてきました。義実は結城を落ちて安房に逃れ、落武者から安房一国を支配するようになったと理解されてきました。しかし、落武者が一国を支配するようになるという物語のようなことが現実にあったのでしょうか。いまそのことについての疑問が投げかけられています。
 里見氏がなぜ安房国に来たのか。それはここまで説明してきたように、関東全体が足利派と上杉派に分かれて対立するなかで、もともと公方の側近でしかも足利氏とは同族という高い格式をもつ家柄だった里見義実が、成氏の側近として仕えるようになってから、上杉派が安房国に入り込む余地をなくすために、公方成氏の指示によって、安房国の足利派を結集する役割をもって送り込まれたと理解するようになっています。
 足利氏の所領が多い安房国に、上杉氏の勢力がどのくらい入り込んでいたのかわかりませんが、朝夷郡には上杉氏の勢力が及んでいたようです。その朝夷郡での上杉氏の拠点が白浜(白浜町)だったのではないかということで、最近では白浜が注目をあびて
います。それは白浜が海上交通の要衝で、東京湾航路と太平洋航路の分岐点になる重要な港だったということと、さらに上杉氏にとっては支配地域になっていた伊豆半島と大島に加えて、この白浜を手に入れることが、東京湾の目の前にトライアングルの領海をつくりだすことになるため、海上交通路を完全に押さえて、流通・軍事の利権を手にすることにもなるという戦略的にも重要な港だったからなのです。
 里見義実はここから上杉勢力を追い払うことが大きな役割だったようです。里見氏の伝説が白浜城を拠点にしたことからはじまるのは、白浜の上杉派を駆逐した実績があったからだと考えられるようになってきました。のちの上杉氏の家臣に白浜近くの神余郷(館山市)を本拠にする神余氏がいることや、また初期の里見氏の重臣だった木曽氏がもともとは上杉氏の家臣として白浜の経営のために派遣された可能性が高いことから、白浜に上杉氏の拠点があったというのです。木曽氏が里見氏の重臣になれたのは上杉氏を離反したからで、だからこそ大きな争乱もないまま安房から上杉勢力が追い出され、里見義実は短期間のうちに安房国をまとめあげたと考えることができるということです。
 とはいえなぜ安房に里見なのか。公方の権威と家柄という後ろ盾だけで、安房の足利派は受け入れてくれたのでしょうか。そもそも安房に里見氏自身の基盤はなかったのでしょうか。上総に派遣された武田信長の場合は、南北朝時代すでにに鎌倉府の所領を管理するために武田一族が市原郡に入っていたということですから、縁もゆかりもなく上総に派遣されたのでもなさそうです。里見氏の場合も鎌倉府の所領管理のために早くから安房に縁をもっていたのかもしれません。成氏が鎌倉に復帰したとき義実は安房から鎌倉へ出向いているのです。

里見義実は何者か
 そしてもうひとつ、里見義実はいったい何者なのかということも注目されるようになっています。系図のうえでは里見家基の子ですが、家基は永享の乱で公方持氏とともに鎌倉で討死した刑部少輔だともいうし、結城合戦で討死した修理亮だともいいます。いずれにしても義実の父は討死をしているので、それをうけて義実は所領へ逃れるか、所領を上杉方に奪われてしまえば、どこか所縁の土地へ落ちていくことになります。それが安房だったのかもしれません。ところがもうひとつ別の考え方が最近注目されてきています。それは関東の里見氏は家基の討死で断絶し、鎌倉時代に美濃に移住していた里見一族の中から関東の里見家を継いだのではないかという考え方です。
 鎌倉公方に復活した成氏は信濃から鎌倉に戻ってきましたが、ほかの子供たちのなかには美濃にいた遺児や美濃の守護土岐氏に保護されていた遺児がいました。彼らが成氏の復活とともに鎌倉に戻ってきたとき、彼らを保護していた美濃の武士たちも鎌倉にやってきているというのです。このとき美濃から関東の里見氏を復活させるためにやってきたのが義実ではないかというものです。義実は左馬助のつぎに民部少輔と呼ばれています。関東の里見氏は刑部少輔を使う者が多いのですが、美濃の里見氏は民部少輔を名乗るケースがあったのです。義実が何者かまだ結論はでていません。この時期の里見氏についてはまだまだわからないことが多いようです。

第二章 房総里見氏の誕生

里見氏以前の安房
里見氏、戦国の安房に現れる
封印された里見氏の時代
里見家の政権交替劇
第三章へ……