鎌倉府
 足利尊氏は幕府を京都に開きましたが、鎌倉が武家政権の本拠地という意識はしていて、関東八ヶ国などを管轄する機関として鎌倉府を設置、その象徴として足利氏の一族から鎌倉公方を任命しました。その補佐役であり実務の統括者として関東管領をおき、関東の象徴的な政治体制として鎌倉公方−関東管領というかたちがつくられました。
 鎌倉公方は尊氏の子足利基氏から氏満・満兼・持氏と子孫に受け継がれ、関東管領は貞治二年(一三六三)に上杉憲顕が任命されてからは、足利氏の外戚にあたるこの上杉氏が代々勤めるようになっています。しかし鎌倉公方は氏満以来代々が将軍職を望んで幕府と確執していて、とうとう永享十年(一四三八)に持氏が幕府との対決姿勢を明確にすると、これを諌める関東管領上杉氏と対立して敗死してしまいました。これをきっかけに関東の争乱は拡大して戦国の時代へとすすんでいくわけですが、持氏の子成氏の代になると鎌倉にいることができなくなり、下総国古河(茨城県古河市)へ移って古河公方と呼ばれるようになりました。古河公方は成氏から政氏・高基・晴氏・義氏と続いて、天正十一年(一五八三)に断絶するまで、戦国時代の関東の象徴的な権威として存在しつづけたのです。
 康暦元年(一三七九)に鎌倉公方足利氏満のはからいで上野国に復帰した南朝方の新田一族たちは、応永二十三年(一四一六)に鎌倉府が分裂して関東管領を辞職した上杉禅秀が反乱をおこすと、禅秀を支援して鎌倉を攻めた新田一族の惣領岩松満純に従わず、鎌倉公方足利持氏方として連合し、逆に満純を滅ぼしてしまいました。氏満の恩に報いたかたちの里見氏ら新田一族は、おそらくこの乱の戦功を認められたことでしょう。この後、応永三十四年(一四二七)から三十五年頃になると、持氏の近臣として里見刑部少輔という人物が現われてくるのです。

鎌倉府の里見家墓
 鎌倉府の刑部少輔というのは、里見義秀以降の安房里見氏の先祖たちがよく使っていました。ここに出てくる刑部少輔は安房里見氏の初代になっている里見義実の父里見家基のことです。家基は南奥州(福島県)との関わりが強かったらしく、応永三十四年には、常陸国(茨城県)守護の故佐竹義盛に従って長年鎌倉府に出仕し ていた、陸奥国石川荘(福島県石川町)出身の石川三郎左衛門の忠勤を鎌倉公方に報告して恩賞の仲介をしたり、翌年には陸奥国依上城(茨城県大子町)での溝井六郎の合戦ぶりを報告、またこの頃下野国烏山城(栃木県烏山町)の那須資重に従って入江荘(福島県福島市か)で戦った池沢四郎の働きも報告しています。もちろんどちらも鎌倉公方と敵対する勢力を相手にした合戦でのことです。
 公方に属する武士の働きを報告するだけではなく、正長二年(一四二九)に陸奥国宇多荘(福島県相馬市・新地町)で公方方の相馬氏・懸田氏らが白河結城氏と合戦をしたときには、敵対する白河結城氏を牽制するために、里見家基自身が陸奥国白河(福島県白河市)の結城氏本拠地まで出陣するなどということもありました。こうしたことから、家基は南奥州の武士の戦功や忠勤ぶりを直接鎌倉公方に報告する役割をもっていたわけですが、奉公衆という鎌倉公方の側近として、南奥州での出来事に責任をもって仕える立場だったということもうかがい知れるわけです。

奉公衆の里見氏
 じつはこの家基の登場に先立って、南奥州と接する常陸国多賀郡手綱郷(茨城県高萩市)に、その土地の地頭として里見兵庫助基宗という人物が入り込んでいました。応永五年(一三九八)から同二十三年(一四一六)にかけてのことです。ここは鎌倉府の直轄領で、足利荘出身で古くから足利氏の家臣だった寺岡氏とともに地頭になっています。基宗も鎌倉公方の家臣だったといえるわけです。兵庫助といえば、延文三年(一三五八)に足利義詮の将軍宣下の行列に加わった兵庫助がいました。
 その系統と関係があるのかどうかはわかりませんが、里見系図のなかには家基を常陸大掾と記したり、父家兼や叔父満俊が常陸国宍戸荘小原郷(茨城県友部町)に住んでいたと書いているものが多くみられます。永享七年(一四三五)には小原郷と同じ宍戸荘(友部町・岩間町・茨城町など)にある志多利柳郷を支配する里見四郎という人物も存在しています。宍戸荘には足利氏に従った宍戸氏と南朝方になった宍戸氏がいましたが、南朝方宍戸氏の所領は鎌倉府に没収されて、公方の直臣たちに与えられたようです。里見四郎はそのひとりであり、家基も同様だったのでしょう。兵庫助がだれであれ、十五世紀の前半には鎌倉公方の家臣として常陸国で活動する里見氏が姿をあらわしていたということで、家基が南奥州と関わるのも自分自身が常陸に移り住んでいたことと関係があるのかも知れません。

家基の死
 さて里見家基は永享十一年(一四三九)に没しました。この年には鎌倉公方の足利持氏が鎌倉の永安寺で関東管領上杉憲実の軍に囲まれて自殺をとげています。代々鎌倉公方は将軍職を望み続けて幕府と対立し、関東管領の必死の制止で幕府との間が取り持たれてきましたが、持氏はとうとう関東管領とも対立してしまい、関東管領上杉憲実を実力で排除しようとしたのです。結局は、幕府軍の支援を受けた憲実に逆に攻め滅ぼされてしまったのですが、持氏の側近だった家基は、自害した持氏にお供をして自殺したというものです。
 ところがもうひとつ、二年後の嘉吉元年(一四四一)に結城合戦で篭城して討死したという説もあります。これは持氏の遺児を奉じた反上杉派が結集して、上杉・幕府連合軍を相手に戦ったものです。このとき討死したのは里見修理亮といい、京都まで首が送られました。これが里見家基だといわれています。はたしてどちらが本物か結論はでていません。
 持氏の死によって鎌倉府による関東支配は事実上終わりをつげ、以後は鎌倉公方も関東管領も実体をなくしてしまいます。永享の乱とよばれるこの騒乱によって、鎌倉公方−関東管領−各国守護−在地の領主というように上下につながっていた関係や、一族の惣領とその他の庶子家との関係などでも、これまで徐々に進行していた下位が上位の権威に服さないという秩序の乱れが、表面化してきたのです。一族という血縁の関係よりも、地縁で連合して自分たちの利益を守るようになり、地域勢力っが分立するようになってきたのです。在地の領主たちは周囲との利害関係から従うべき上位の権力を選択するようにもなります。こうして関東は戦国の時代へと入っていき、房総里見氏もそういう世の中の流れのなかで、安房へ登場してくることになるのです。

第一章 里見氏のルーツをたどる。

里見氏のふるさと紀行
新田一族のこと
鎌倉御家人里見氏
南北朝動乱のなかの里見氏
鎌倉府と里見氏
第二章へ……