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新田義貞の挙兵と里見氏
氏義のあとに里見氏の姿が確認されるのは、鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱の時期にかけてです。
元弘元年(一三三一)の後醍醐天皇らによる倒幕クーデターが発覚した元弘の変は、天皇が隠岐(島根県)へ流刑となって失敗はしたものの、その後の倒幕へ向けての大きな流れになっていきました。翌元弘二年の末になると京都周辺で反幕府勢力の挙兵が相次ぐようになったのです。護良親王が大和国(奈良県)吉野で兵を挙げると、楠正成が河内国(大阪府)千早城でこれに応じ、年が明けると播磨国(兵庫県)苔縄城でも赤松円心が反幕府の兵を挙げました。こうして倒幕の動きがつながっていく中で、反幕府の中心人物である後醍醐天皇が隠岐からの脱出を果たすと、全国の武将に向けて幕府追討の号令を出したのです。
幕府はこうして拡がりをみせる反幕府の動きを鎮圧しようとして、北条一族の名越高家や足利尊氏らを将とする大軍を上洛させます。しかし同三年(一三三三)五月七日、足利尊氏は後醍醐天皇方に寝返って京都へ突入、京都の幕府方の拠点六波羅探題を襲撃して、一気に倒幕の動きを加速させたのです。
そして尊氏と同族で、これに同調していた上野国新田荘の新田義貞も、翌日新田荘生品明神に新田一族一五〇騎を集めて倒幕の旗揚げをしました。生品明神には里見一族から里見五郎義胤も駈け付けていました。群馬県榛名町にある新田義貞伝
承では義貞の実兄にあたるという人物です。義胤は里見一族の惣領氏義の弟で新田荘高林を拠点にした義秀の孫であり、
安房里見氏の直接の先祖になる人です。
義貞軍はいったん各地からの交通路が集中する上野国八幡荘(高崎市)へ出て、里見・鳥山・田中・大井田などの越後の里見一族と甲斐・信濃の源氏を結集すると、一気に鎌倉街道を南下して鎌倉をめざしました。その途中で、足利尊氏の子義詮の軍勢や、尊氏からの呼び掛けに応じた上野・下野・上総・常陸・武蔵の兵も加わり、武蔵野にかかる頃には二十万の軍勢になったといいます。これに対して幕府軍も、上総・下総の軍勢五万騎と武蔵・上野の軍勢六万騎で新田軍の前後を挟むような態勢をとり、数ヶ所で大規模な合戦を繰り返しましたが、分倍河原(東京都府中市)合戦で大崎敗して鎌倉まで押されてしまいます。
義貞軍は五月十八日に鎌倉へ迫ると、鎌倉への入口のうち極楽寺坂・巨福呂坂・化粧坂の三方に分かれて攻撃を開始、里見義胤や里見一族の鳥山氏・大井田氏などは義貞率いる本隊に属して、まず幕府方の安房・上総・下野の軍勢が守備する化粧坂からの攻撃に参加しました。その後義貞が化粧坂の軍勢を割いて稲村ケ崎にまわると、里見義胤や里見一族の鳥山氏・田中氏らもそれに従って移動し、二十一日に稲村ケ崎が干潟になったところを駆け抜けて鎌倉市内に突入しています。翌日、化粧坂・巨福呂坂からも義貞軍が幕府方の防衛戦を突破して市中へ乱入すると、北条一族は自害し、義貞軍は鎌倉幕府を滅亡させました。里見氏は新田氏の一族として義貞の挙兵に同調、つねに従った様子がわかります。
建武新政権と里見氏
鎌倉幕府の滅亡によって、後醍醐天皇は強力なリーダーシップで新しい政権を打ちたてました。その建武新政府は、公家が要職を占める京都の中央政府機関を整備し、地方行政機関でも長として公家を中心として国司に任命し、治安維持のために有力武士を各国守護に任命しました。足利尊氏は武蔵守、新田義貞は越後守として国司に任命されましたが、越後国では里見伊賀五郎という人物が守護代になりました。義貞の越後守・越後守護就任と関連した人事だったのでしょう。
越後国には鎌倉時代から里見氏の一族が拡がって所領をもっていました。里見義成の次男伊賀蔵人義継が越後国波多岐荘大井田郷(新潟県十日町市)に移るとその子氏継が大井田氏となり、義成の三男鳥山時成も新田荘鳥山のほかに波多岐荘の入馬・今泉・深見・倉俣(新潟県十日町市・津南町・中里町)などを所領にしていました。系図によっては時成の子鳥山頼成を五郎・伊賀守としているものがあり、この系統は代々伊賀守だったと書いています。鎌倉御家人義成が伊賀守になったことから、その子孫のなかには伊賀と称える者がでてきます。新田義貞軍に加わった里見伊賀五郎は、この頼成系統の鳥山氏あるいは里見五郎義胤あたりのことなのでしょうが、いずれにしても里見氏にとってはこの上ない高価な恩賞だったといえるでしょう。
また新政府の機関のひとつとして御所や京都の警備にあたる武者所がおかれましたが、義継の次男で大島氏となった時継の曾孫大島讃岐守義政は武者所に所属しています。武者所は新田・足利家の武士が多く配属されたといいます。系図によっては越後里見氏の鳥山左京亮家成も武者所に配属されたとしています。
それから二年後の建武二年(一三三五)、後醍醐天皇が始めた新政府は、新しい武家政権の樹立をめざす足利尊氏と後醍醐天皇の新政権を支えようとする新田義貞との決定的な対立によって崩壊してしまい、半世紀にわたる全国的な内乱の時代へと入っていくことになります。同族である足利氏と新田氏の対立のなかで里見氏が選んだ行動は、より近い一門である新田義貞と行動をともにすることでした。
新田義貞の北国落ち
この年の暮れ義貞は、鎌倉で反旗をひるがえした尊氏を討つため、討伐軍を率いて鎌の北国落ち 倉へ向かいました。しかし竹下箱根(静岡県小山町・神奈川県箱根町)の合戦で敗れて京都へ敗走。それを追う尊氏は翌年の正月に、山崎(京都府大山崎町)で入洛を阻もうとする義貞軍を退けて京都へ入ります。尊氏いったん京都を追われるものの、九州で態勢を建て直して、湊川(神戸市兵庫区)で新田楠軍を敗り再度上洛すると、義貞は十月に皇太子恒良親王と尊良親王を伴って越前国金ケ崎城(福井県敦賀市)に引いて立て篭もりました。尊氏は京都で光明天皇を擁立し、後醍醐天皇は吉野へ移って、ここに北朝と南朝に分かれて対立する内乱の時代がはじまるわけです。
さて里見伊賀守・大膳亮など里見一族も箱根・山崎・湊川を義貞とともに転戦していました。義貞の北国落ちに従う者なかにも里見大膳亮義益・大井田式部大輔義政・鳥山修理亮義俊という名がみられます。金ケ崎城へ入った義貞ら南朝軍は、越前守護斯波高経ら北朝軍による攻撃をよくもちこたえていましたが、翌建武四年(一三三七)正月、尊氏の腹心高師泰が率いる大軍に金ケ崎城を攻められます。義貞の甥で杣山城(福井県南条町)に立て篭もっていた脇屋義治は、里見伊賀守を後詰めの大将として救援に向かわせています。途中で今川駿河守に討たれてしまいましたが、この伊賀守は越後守護代になった伊賀五郎のことと思われます。
三月になると金ケ崎城は陥落、尊良親王と義貞の長男義顕は自害してしまい、里見一族の惣領里見大炊助時義がそれに殉じて自害しています。義貞は弟脇屋義助とともに城を脱出して杣山城へ入りました。さらに翌暦応元年(一三三八)六月になると越後から里見一族の大井田弾正少弼氏経・鳥山左京亮らの援軍があり、義貞らによる守護斯波氏の居城黒丸城(福井市)や斯波方の平泉寺衆徒が篭もる藤島城(福井市)攻撃に参加します。しかしこの合戦のなかで義貞は負傷自害してしまうのです。
新田一族の没落
同じ頃上野国でも、足利氏に属する下野国佐野(栃木県佐野市)の佐野義綱らが攻め入り、新田氏の軍勢と戦っていました。建武四年四月二十三日には八幡荘(群馬県高崎市)に接する板鼻(群馬県安中市)で衝突しています。おそらく板鼻に隣接する里見郷に残された里見一族も無関係ではいられなかったでしょう。板鼻は東山道が通るとともに烏川や碓氷川などが合流して河川交通のうえでも要衝の地です。かつて新田義重が兵を集めた寺尾城があり、新田義貞も鎌倉へ向かうときに軍勢を集めた八幡荘とは同じ地域といってよい場所です。この周辺は新田氏の拠点だったと考えられています。そこでの合戦に新田方は打ち負け、東上野は足利軍に制圧されてしまったようです。その後八幡荘は、足利方の上杉憲顕がつとめる上野守護の所領になってしまいました。
義貞を失った南朝軍は脇屋義助を中心に一時は越前一国を掌握しましたが、暦応四年(一三四一)には越前を撤退して、義助は吉野へ入ってしまいました。義貞の三男新田義宗や脇屋義治などは越後里見氏の所領があって、新田一族の越後本拠地ともいえる波多岐荘や妻有荘(新潟県津南町)を拠点にするようになりました。
足利尊氏と直義兄弟が政治指向の違いから分裂し、観応元年(一三五〇)にいよいよ内乱状態になると、直義は南朝方と結びました。文和元年(一三五二)に足利直義が尊氏に殺されると、義宗や義貞の新田一族の転戦次男義興ら新田一族は直義派の上野守護上杉憲顕と結んで、後醍醐天皇の皇子宗良親王を迎えて上野国で蜂起、一度は鎌倉を陥れています。しかし失敗して、義興は上野方面でゲリラ活動を続けるようになり、義宗も越後へ退却して反足利行動を続けていくことになります。
こうして新田一族はあくまでも南朝方としての行動を続けていたため、新田荘の所領は足利方に没収されたようで、新田一族のなかで唯一、義貞の鎌倉攻めの時から足利尊氏に従っていた岩松氏に与えられていきました。里見氏の所領だった新田荘内の大島・鳥山・牛沢・太田・高林も岩松氏の所領になっています。鎌倉幕府が倒された際、岩松氏は恩賞として伊勢・遠江・駿河・甲斐・陸奥・出羽・播磨・土佐の各国で十ヶ所の地頭職を与えられて、新田一族のなかでは最も優遇されていますが、新田氏が南朝方として衰退していくなかで、新田氏の惣領の立場も岩松氏が手に入れることになるのです。
ところで越後を拠点とする鳥山氏や大井田氏などの越後里見氏の一族は、新田義興・義宗を支援して南朝方としての行動を続けていたようですが、越前での攻防のなかで里見一族は、惣領の里見時義や出世頭の里見伊賀五郎などのリーダーを失い、義貞の討死後上野里見氏の姿はしだいに目立たなくなっていきます。義興らが上野から蜂起して鎌倉へ突入したときには、田中氏・大井田氏などの一族の姿はあるものの、里見姓の者は出てこないのです。ただ九州攻略をすすめていた南朝の征西将軍懐良親王が、
延文四年(一三五九)に太宰府(福岡県太宰府市)を攻撃した際に、親王に従った新田一族のなかに里見十郎という人物がいました。西国で行動する南朝軍のなかにも新田一族の勢力が割かれて行動していたことがわかります。
東国では延文三年(一三五八)に新田義興が殺され、弟義宗が応安元年(一三六八)に敗死すると、南朝方の勢力はほとんど消滅して足利方への抵抗も終わっていったようです。新田一族は潜伏するか、岩松氏の支配する新田荘へ帰ってひっそりとした暮らしにはいったことでしょう。
そうした新田一族に対して、さほど時を経ないうちに鎌倉公方足利氏満のもとへの帰属が許されました。鎌倉公方は、足利尊氏が関東支配のために新しくつくった鎌倉府の長で、尊氏の嫡子義詮の系統が将軍職になったのに対して、義詮の弟基氏の系統がこの職を継いでいきました。しかし基氏の子氏満は将軍職への野望をもち、康暦元年(一三七九)に将軍足利義満にたいして謀反を企てたことがありました。そのとき鳥山・世良田・額田・大島・大館・堀口・桃井といった新田一族は氏満に帰属できたのです。もちろん里見姓の者もいました。氏満は自分の支持勢力を広げるために、流浪していた新田一族に仕えていたものたちも許し、上野国や武蔵国でわずかとはいえ所領を与えたのです。室町時代に里見氏の一族から山本氏や仁田山氏などが分かれますが、山本は八幡荘山名郷(群馬県高崎市)のうちにあり、仁田山は現在の群馬県桐生市にある地で、里見氏は元の領地から遠くないところに所領が与えられたようです。
足利氏のなかの里見氏
南朝方として新田氏とともに行動した里見氏たちがいた一方で、新田氏の拠点が越後に移った頃から、足利氏に属して行動する里見一族の姿もみられるようになってきました。
早いのは康永四年(一三四五)、将軍足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈るために建てた天竜寺(京都市右京区)の完成記念式典で、里見蔵人(民部少輔)義宗が尊氏の行列に供として連なっているものです。この蔵人義宗は美濃国(岐阜県)円教寺の地頭になって上野国をはなれた義直の子孫になる人物です。ちなみに九州で懐良親王に従っている里見十郎は、義宗の父里見十郎義景かもしれません。そうすると親子で南北に分かれたということになります。この義宗は、貞和五年(一三四九)に尊氏の弟足利直義が足利家執事高師直と京都で軍事衝突をした事件のときに、直義邸に馳せ参じていて、直義派だったことが
わかります。
また延文三年(一三五八)に足利義詮が将軍宣下を受けたときには、里見掃部頭為利が騎馬で御所への参内に従い、里見兵庫助が四脚門で控えています。二人については正確な出自はわかりませんが、兵庫助は里見一族の大島氏にいる義高の可能性があります。とすると、義高の父義政は大島讃岐守といって、建武二年に鎌倉で建武政権に反旗をひるがえした尊氏討伐に出陣して、新田一門として足利軍と戦っているので南朝方であり、ここでも父子が南北に分かれていたことになります。里見為利が使っている掃部頭というのは、鎌倉時代に里見の惣領だった氏義が使っていたもので、その後惣領家で使用するケースがみられますから、為利は惣領家の人物の可能性があります。里見惣領家でも南北に分かれたのかもしれません。
さらにだいぶ後年になりますが、永享年間((一四二九〜一四四一)から文安年間(一四四四〜一四四九)に、将軍の直轄軍である奉公衆として仕える里見伊賀入道という人物や、長享元年(一四八七)に近江国釣の陣(滋賀県栗東町)を構えて六角氏討伐にあたっていた将軍足利義尚に従い、翌年申次という側近に加えられた奉公衆の里見兵部少輔尚直という人物、一緒に釣の陣に従った奉公衆の里見源七郎という人物もいて、将軍家の家臣として仕えた里見氏がいた様子がわかります。
里見系図のなかには、越後里見氏の鳥山氏に伊賀守房成・兵部少輔貞直という父子があり、伊賀入道と兵部少輔尚直がこの父子にあたるかもしれません。越前で討死した里見伊賀守が房成の父伊賀守義盛だとすると、ここにも父子で南北に分かれる状況か、あるいは新田方から足利方への乗換えという事態があったことがうかがい知れます。自らの立場を守るため、あるいは一族の生き残りをかけて戦乱の時代を生き抜いていたということでしょうか。
また京都の将軍家ばかりでなく、関東の鎌倉公方のもとにも里見氏の姿がありました。貞治四年(一三六五)に足利基氏の近習たちが六波羅密寺に馬を奉納するなかに里見師義の名があり、鎌倉公方の家臣になって側近として仕える里見氏もいたのです。
奥州の里見氏
さらに同じ貞治四年に、出羽国雄勝郡三俣(秋田県増田町)の小笠原義冬が、同地の満福寺に奉納した大般若経に、大旦那として里見義忠・義安の名もみることができます。小笠原義冬は甲斐国一宮(山梨県一宮町)の出身で、足利尊氏が陸奥国を支配するために設けた奥州探題の一員として派遣されたのではないかと思われます。おそらく里見義忠・義安も同じ立場で派遣された人物なのでしょう。ちなみに、安房里見氏の直接の祖で義貞の挙兵に従った里見五郎義胤の子義連を、奥州大将とか陸奥守と説明する系図があります。この肩書きがそのまま信用できるものではないとしても、里見義連が奥州との関わりをもっていたと考えて差し支えはないでしょう。
戦国時代になって奥州で活躍する里見氏もいます。奥州探題斯波家兼の子孫大崎氏の重臣として上狼塚館(宮城県中新田町)にいた里見紀伊守隆成、同じく家兼の子孫で山形城主(山形市)になった最上氏の家臣として、上山城(山形県上山市)に拠った里見越後守・民部父子や東根城(山形県東根市)の里見薩摩などで、おそらく南北朝期に奥州へ移った里見氏の系譜を引くのではないでしょうか。
これらのうち、里見師義、義忠・義安たちが里見氏の系図のなかでどのような位置にいるのかわかりませんし、もちろん安房里見氏の系統との関係もわかりませんが、南朝方と北朝方との争いが続いている時期に、新田義貞の挙兵以来、新田家惣領に従ってきた里見一族と敵対する行動をとる里見氏、あるいは足利方に鞍替えをしたのかもしれない里見氏たちがいたわけです。
このように足利氏の家臣として京都の将軍家に仕える里見氏がいたり、鎌倉公方に仕える里見氏がいたり、足利氏が設置した奥州探題に属する里見氏がいるなど、里見氏の行動の場も全国に広がっていったわけですが、安房里見氏の直接の先祖とされる系統の人々はどのような軌跡をたどって安房へ来ることになったのでしょうか。五郎義胤の子義連は奥州と関わりをもったようでしたが、里見氏が安房へ来た頃に深いつながりをもっていた鎌倉公方との関係を中心に追いかけてみましょう。 |
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第一章 里見氏のルーツをたどる。
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里見氏のふるさと紀行 |
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新田一族のこと |
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鎌倉御家人里見氏 |
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南北朝動乱のなかの里見氏 |
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鎌倉府と里見氏 |
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第二章へ…… |
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