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北条政子と新田義重
こうした頼朝との関係からか、新田一族のなかでは山名氏と里見氏が、御家人として新田惣領家からの独立性が強かったようです。
頼朝が平家打倒に立ち上がったその年、里見義成は二十四歳でした。暮れの十二月に鎌倉で頼朝と対面したときには、祖父義重も一緒でした。この時義重が鎌倉の入口で足止めとなっていたのは、寺尾城に軍勢を集めて引きこもったことへの弁明を要求されたためでしたが、頼朝の側近でのちに上野国の奉行人になる安達盛長の取り持ちでなんとか許されます。加えて義成が関東下向の途中で、関東から京都の平宗盛のもとへ向かう同僚の斎藤実盛などに会っても、一途に頼朝のもとへ参向したという義成の行動も、頼朝の判断に影響を与えたかもしれません。いずれにしてもこの対面で、義重は御家人としての立場を確保できたようです。寿永元年(一一八二)四月、頼朝が江の島に弁財天を祀って祈願をしたとき、北条時政や足利義兼などと一緒に義重も頼朝の御供に加えられていました。
義重は建仁二年(一二〇二)に六十八歳で没したとされています(八十六歳の間違いではないかとも思えます)。その臨終の報せを受けた北条政子は、死後二十日も経たないうちに蹴鞠に興じようとした将軍源頼家を諌めて、義重は「源氏遺老・武家要須」の人だったのだと説いています。つまり義重は、清和源氏の血統の長老であり、鎌倉政権にとってなくてはならない人だったのだと言ったわけです。政子にとっての義重は十分評価に値する人物だったようです。そこには次のエピソードも関わってくるの
でしょう。
義重には、頼朝の兄で平清盛暗殺を企てて永暦元年(一一六〇)に殺された源義平の後室だった娘がいたのですが、寿永元年(一一八二)六月のこと、頼朝はこの女性にラブレターを出したのです。妊娠中の政子の気持ちを考えた義重は、娘も頼朝を望んでいなかったことから、帥六郎という人物と再婚させてしまいました。当然のことながら義重はまたも頼朝の怒りをかったわけですが、政子の評価はもちろん違ったでしょう。きっと政子は頼朝に冷たくされる義重を後々まで支えたのではないでしょうか。
御家人里見義成
一方頼朝と対面した後の義成は、頼朝の伊豆箱根三島社参詣へのお供、政子・実朝母子の引越のお供、頼朝の鶴岡八幡宮・日向山・善光寺・東大寺・石清水・四天王寺参詣など各地への参詣の警護を勤めたほか、頼朝の長男頼家の兜始で献馬を引き、頼朝の正月鶴岡参詣での御剣の役、北条泰時の元服で剣の伝授、鶴岡祭礼への奉幣使など、儀式でも一定の役割を果たしました。さらに三浦三崎(神奈川県三浦市)での小笠懸の射手、鶴岡八幡宮流鏑馬での射手を勤め、武者としての能力も高かったことがわかります。
頼朝から寵愛されたというだけあって、建久四年(一一九三)に頼朝が信濃国三原(群馬県嬬恋村)と下野国那須(栃木県)へ狩りに出かけたとき、狩りに慣れた御家人が集められ、その中から弓馬が達者で信頼できる武者二十二人が選抜されていますが、義成がそのひとりに加えられました。同じ年に富士で巻狩りが行なわれたときにも供をしています。このときには遊君別当に任命されています。つまり遊女の監督官のことです。およそ一月滞在した巻狩りのあいだ、狩りがなく酒宴になった日がありました。その日は手越(静岡市)や黄瀬川(静岡県沼津市)など近隣の遊女が押し掛けて混乱したため、遊女たちの統率をとるために義成が別当という担当官に任命されたのです。義成は遊女たちを集めてその中から芸の達者な遊女を選んで、召しに応じて仕えるように命じています。これがきっかけで遊女に関することはその後も義成が取り扱う役目になりました。
ちなみにこの巻狩りの時に有名な曽我兄弟の仇討ちが行なわれたのですが、捕らえられた曽我五郎が頼朝の前に引き出されたとき、居並ぶ側近たちのなかに義成の姿もありました。頼朝の側近くに仕えて信頼をかちえ、主要な役割を与えられた御家人里見義成の姿であるわけです。義成は伊賀守従五位下という位に進み文暦元年(一二三四)に七十八歳で没しました。頼朝・頼家・実朝・頼経と四代の将軍につかえて「幕下将軍家寵士」といわれ、多くの人々がその死を惜しんだと『吾妻鏡』は伝えています。
ところで、こうした新田義重や里見義成のことが詳しくわかるのは、この『吾妻鏡』という鎌倉幕府のことを記録した史書があるからです。このなかには義成の父里見義俊は登場してきません。榛名町では里見氏の祖として伝承のある人物ですが、具体的な記録はなにもないのです。嘉応二年(一一七〇)に三十四歳で死去という説と元久元年(一二〇四)死去とふたつの説があるそうですが、頼朝挙兵の治承四年(一一八〇)にはもう亡くなっていたのかもしれません。
美濃里見氏
義成以後の里見氏の姿を『吾妻鏡』で探してみると、宝治二年(一二四八)に里見伊賀弥太郎義経が御家人として将軍の警護をしている姿があります。義経は義成の二男里見義継のことと考えられています。同じ年義継は里見蔵人三郎とともに、足利義氏から鎌倉将軍への引出物である馬を引く役も勤めています。蔵人三郎は義成の四男里見義直の子義貞のことと考えられていて、里見氏が御家人として活躍を続けた様子がわかります。
ただ、この義成の四男里見義直は上野国から離れていった人物でした。この人は殷富門院蔵人とよばれていましたが、それは後白河天皇の皇女で殷富門院という女性の蔵人という秘書官であることを意味する肩書です。殷富門院は後鳥羽上皇の母の資格を与えられた人でもあり、建保四年(一二一六)に七十歳で亡くなりました。この女院はたんに義直の所領の荘園領主だったというだけかもしれませんが、もしかしたら義直が御家人として在京したとき、この女院に仕えていたのかもしれません。
のちに義直は承久の乱(一二二一)に際して、勲功の賞として美濃国円教寺(岐阜県)の地頭職を与えられています。承久の乱は後鳥羽上皇と近臣たちが鎌倉幕府を倒そうとして挙兵し失敗した事件ですが、上皇方には在京の御家人である西国の武士たちが多く参加していました。事件に関与した上皇の側近や西国武士の所領はすべて没収され、東国の御家人たちに与えられたのでした。その結果、一族の中から西国の所領に移住していくケースが増え(これを西遷といいます)、鎌倉時代の民族大移動が行なわれたのです。有名な島津氏や吉川氏などもそうでした。義直はこの乱で上皇方につくことはなく、新たな所領を手に入れることができたわけです。そして西遷武士のひとりとして美濃へ移住していきました。義直の二男頼成も円教寺の内の平野村の地頭になっています。
西国に所領をもった里見氏はもうひとりいました。里見次郎太郎信重といい、弘安五年(一二八二)に長門国員光保(山口県下関市)の地頭だった人物です。承久の乱の恩賞か、文永十一年(一二七四)にあった元寇のときに活躍して恩賞としてもらったものか、手に入れた理由はわかりませんが、この頃には年貢を押領して領主の大蔵省に渡さなくなっていたようですから、西遷武士として移住して所領の経営にあたっていたのでしょう。里見一族のなかにも、こうして西国へ移住していった一族がいたので
した。
宮田不動尊
一方、本領の里見郷周辺でも義成以後の里見氏の活動の痕跡がみられます。里見郷から北東へ直線でおよそ二十qのところに赤城村宮田というところがあり、そこの宮田不動尊の洞窟に重要文化財の不動明王像が祀られています。一六五.六pの等身大の石像で、建長三年(一二五一)に掃部権助源朝臣氏義が願主として造らせたものです。
氏義は里見義成の嫡子義基の子で、里見一族の惣領です。宮田は里見郷や八幡荘から少し離れていますが、里見氏の信仰圏にあったということでしょうか。
それにしてもこの不動明王像は、当時の東国武士たちの支持を受けていた、鎌倉彫刻を代表する慶派という集団に属する仏師の作品ではありません。作者は院隆といって、平安時代後期に藤原文化をつくりだし、鎌倉時代も京都を中心に活動を続けていた院派という集団に属していた仏師です。院派は朝廷や貴族に支持され、鎌倉時代にも藤原時代の保守的な仏像を制作していたグループです。里見氏の文化志向を考えるうえで、里見氏義と院派仏師がどのようにつながったのかも興味深いところです。
ところで里見義俊以降、義成、義基、氏義と里見氏の嫡流が続いたのですが、安房里見氏の先祖は義基のあとは氏義の弟義秀で、義秀は新田荘高林を拠点にして竹林氏となります。その四男義氏は竹林でなく里見を名乗りますが、系図によっては里見忠義ともされています。この系統が安房里見氏へと続いているとされていて、忠義の子義胤は新田義貞の鎌倉倒幕に参加して活躍をするのです。 |
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第一章 里見氏のルーツをたどる。
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里見氏のふるさと紀行 |
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新田一族のこと |
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鎌倉御家人里見氏 |
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南北朝動乱のなかの里見氏 |
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鎌倉府と里見氏 |
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第二章へ…… |
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