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新田氏と新田荘
ところで、里見という苗字のはじまりが、なぜここの地名だったのでしょうか。それは一族のルーツと関係があります。
平安時代の中頃から全国各地で武士が誕生しはじめます。武士たちは土地を自分たちの手で開墾し成長してきました。そして所領が広がると、一族の者に分割相続をして支配するようになりました。一族の長は惣領と呼ばれます。惣領が一族と所領の総責任者であり、戦闘の際にも一族を率いていくことになります。
そんな武士たちが力を持ちはじめた平安時代の終わり頃、里見郷を所領にしたのがはじめて里見氏を名乗った里見義俊です。義俊は新田氏の一族でした。
新田氏というのは清和天皇からはじまる源氏の一族で、源義重が初めて新田を称して新田義重といったのです。この義重が里見義俊の父親です。そして新田というのは群馬県新田郡の地名です。義重の父源義国は、源氏の嫡流で八幡太郎の名で知られる源義家の第三子でした。都で朝廷に仕えていた武士だったのですが、久安六年(一一五〇)におこした事件で天皇から咎めをうけてしまい、下野国足利(栃木県足利市)の領地に引きこもってしまいます。つまり義国は足利荘を領地にしていたわけですが、隣
接する上野国新田荘の再開発をも手がけました。義国といっしょに東国にやってきた長子の義重が新田荘の開発経営を担当し、土着したことから新田氏を称したわけです。ちなみに足利荘は義重の弟義康が相続して足利氏を称しました。足利氏と新田氏は同族ということになるわけです。
新田の一族
ところで、平安時代も終わりに近い天仁元年(一一〇八)に、上野国と信濃国との境にある浅間山が大噴火をおこして、上野国では火山灰が積もって田畑が荒廃、放棄されるという大災害に見舞われました。新田義重は、この田畑を再開発することで力をつけていきました。灌漑用水をつくり、浪人などをあつめて新しい村をつくっていったのです。
嘉応二年(一一七〇)には新田郡全域に荘園を広げて、鳥羽上皇が建立した金剛心院に新田荘を寄進、金剛心院
を荘園領主として後ろ盾にし、義重は下司職となって荘園管理の実務をおこないました。さらに上野国中央部の八幡荘(群馬県高崎市)も所領に加えていきました。その後それらは義重の五人の子供たちに分割して相続されることになり、新田一族の基盤の地域になった
のです。
惣領は新田荘中央部にあって新田義兼といい、ほかの兄弟たちは自分の拠点に別に家を興して苗字にしました。八幡荘山名を相続した義範は山名義範、新田荘西南部の世良田・徳川・江田などを相続した義季は徳川義季、新田荘東北部の額戸・長岡などを相続した経義は額戸経義と名乗りました。そして新田荘東部の太田・大島(ともに群馬県太田市)と八幡荘近くの碓氷郡里見郷を受け継いだ義俊は、里見郷を拠点にして新田から里見という苗字に替えたわけです。さらに惣領新田義兼の娘と足利義純の子時兼に新田荘南部の岩松・田島などを相続させて岩松氏とし、新田氏は六家に分かれました。ちなみに徳川義季は江戸時代の徳川将軍家の祖ということになっています。
里見家では義俊の嫡子が里見一族の惣領となります。そして里見氏の所領のなかで一族がさらに分家をしていき、八幡荘豊岡(高崎市)、新田荘田中(新田町)、新田荘大島・鳥山・牛沢・太田・高林(各太田市)などを拠点に、それぞれの地名を名字にして家を興しています。なかには越後国波多岐荘大井田郷(新潟県十日町市)などに移った者もいて、里見氏の所領が越後国にまで拡がっていたことがわかります。
源頼朝と新田義重
ところで、こうして一族が拡がりをみせたのは平安時代の末から鎌倉時代のことでした。当然、東国に鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝との関係もあったはずです。頼朝の政権樹立のなかで、新田一族そして里見一族はどのような対応をみせたのでしょうか。
源頼朝は新田義重の伯父源義親の曾孫にあたります。同じ清和源氏でも近い関係にあるわけです。とはいっても、義重が新田荘を開発した際、領家としてその権威と権力を背景に荘園の保護にあたったのが藤原忠雅といい、平家の力で太政大臣になった人物でした。つまり新田荘開発にも平家の力が大きく関与したようで、義重は孫の里見義成を平清盛の三男宗盛の家人として在京させていたほどでした。宗盛は兄重盛の死後平家の棟梁となります。そのため頼朝が治承四年(一一八〇)に伊豆で蜂起し、房総から武蔵へと東国武士たちの支援をうけて入った時、頼朝から出陣を求められても義重は返事も出さず、かえって八幡荘の寺尾城(高崎市)に軍勢を集めて、頼朝や東国武士たちの動向を窺っていたのです。
頼朝はその年の十月に鎌倉へ入って、そこを本拠と定めます。東国の情勢が頼朝方に傾くと、十二月に義重は頼朝からの参向命令に従い鎌倉へ向かいますが、鎌倉の入口、山之内で足止めをくらいます。すぐには鎌倉へ入れてもらえないほど頼朝の怒りをかっていたわけです。義重はのちに、頼朝の室北条政子から源氏の「遺老」で「武家要須」の人といわれるほど、源家にとって大切な人物と評価されたのですが、その後も頼朝から不評を買うような行動をしたため、上野国の有力者でありながら、上野国守護はもちろん新田荘の地頭にさえ任命されないような冷遇を受けてしまうことになります。
東国の平家方を代表する人物と言えばそうかもしれませんが、当時頼朝の挙兵に対応して、東の下野国足利(栃木県足利市)からは平家方の足利俊綱が上野国府中(群馬県前橋市)の源氏方勢力を攻撃して焼き討ちし、西からは頼朝の従弟木曽義仲が信濃から八幡荘の南にある多胡荘(群馬県吉井町)に軍勢を進めて、頼朝とは違う自立をめざした動きを見せていたことから、頼朝方として動くには、周辺のしかも近接した地域の情勢が、極めて緊迫していたことは間違いないようです。この時のことについて義重は、領地の周辺で戦闘などがあるときには安易に城を出ないようにと家人に諌められたのだと弁明しています。
しかし、新田一族のなかでも義重の次子山名義範は、早く治承四年のうちから頼朝に従い、千葉常胤や足利義兼などとともに有力御家人のひとりとして頼朝の護衛などにあたっていました。頼朝は文治元年(一一八五)に朝廷に対して、源義経はじめ六人の武将を国の守に推薦しますが、義範はこのとき伊豆守に任じられ、幕府のなかでも重要な役割を担うことになります。そしてこの義範が、南北朝・室町期に強大化した守護大名家の山名氏の祖になったのです。
また新田義重の孫里見義成も祖父とはまったく違う行動をとりました。京都で平家に仕えていたものの、頼朝挙兵の報を聞くと、平家一門には源氏討伐に向うと偽って京都を脱出、関東に向かい、鎌倉に到着するやすぐさま頼朝に忠誠を誓います。この行動は頼朝から高く評価をうけたようで、以後義成は頼朝の近くに仕えることになり、厚遇をうけて将軍の「寵士」と呼ばれるほどになったのです。つまり主君頼朝から寵愛・寵恩を受けた家臣ということですから、その信頼の厚さがうかがえます。 |
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第一章 里見氏のルーツをたどる。
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里見氏のふるさと紀行 |
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新田一族のこと |
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鎌倉御家人里見氏 |
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南北朝動乱のなかの里見氏 |
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鎌倉府と里見氏 |
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第二章へ…… |
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