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上州里見郷
房総里見氏は安房を代表する戦国大名として知られています。でも、はじめから安房の武士だったわけではありません。そのふるさとは上野国、今の群馬県にあります。伊香保温泉で有名な榛名山、その南麓にあって榛名神社で知られる榛名町。そこには里見という土地があるのです。正確には群馬県群馬郡榛名町の上里見・中里見・下里見という地域です。そのむかしは上野国碓氷郡里見郷と呼ばれていました。この里見という地名が、全国にひろがる里見氏の苗字のはじまりになるのです。
その祖は里見義俊といって、平安時代の終わりから鎌倉時代はじめ頃の人物です。房総里見氏の先祖たちは、長い間この里見郷を拠点に活動していました。そして里見一族が全国各地に広がっていっても、この土地にがんばり続けた里見氏もいました。榛名町に行ってみると、鎌倉時代から戦国時代にかけての里見氏ゆかりの史跡が、今も点在しています。さてまずは、里見氏のふるさとをめぐるところからはじめてみましょう。
郷見神社
高崎市から烏川によってつくられた谷の右岸を国道四〇六号(通称くだもの街道)で北西に向っていくと、すぐに榛名町に入ります。川の下流から下里見・中里見・上里見の順に並んでいて、まず目にとまるのが下里見の国道沿いにある郷見神社の看板。これも「さとみ」と読むわけです。
もとは諏訪社といって諏訪明神を祀っていたところで、今でもこの場所は諏訪山と呼ばれています。明治四十三年(一九一〇)に下里見区域の四つの神社を合祀して、いまの神社名に変えたということです。この諏訪明神は、里見郷が戦国時代の終わり頃に武田氏の支配下になったとき祀られたものだそうですが、それ以前は里見氏の祖里見義俊が、源氏の氏神として八幡神を祀ったのがはじまりの場所なのです。つまりここは里見氏ゆかりの神社ということになります。
里見城跡
この神社の境内から小さな谷を挟んだ南側の小高い山の方を向くと、里見城跡の解説板があります。正面に見えるこの山は戦国時代の城跡で、永禄の頃(一五五八〜一五七〇)に里見河内が城主だったと伝えられています。山上には大きな郭がふたつ並んで、そのあいだは堀切りにして、土橋でふたつの郭をつないでいます。西側の郭が主郭で、正方形に造成して土居をめぐらし、ふたつの郭の周囲には小さな腰郭がいくつか付いています。山の北側は里見川の小さな流れに面して崖になり、西につづく尾根は深い堀切りにして切断しています。里見郷は東山道から草津への往還が縦貫していますが、里見城跡から同じ丘陵を南へ向うと、東山道の要衝板鼻の宿(群馬県安中市)へ出ることができます。
戦国時代の永禄年間頃は上野国のこの一帯は上杉謙信の勢力圏にあり、里見河内は箕輪城(群馬県箕郷町)の長野業政に属していました。長野氏は永禄九年(一五六六)に上野国に進攻した武田信玄に滅ぼされてしまいますが、里見河内もその際に没落したといわれています。
この里見河内の存在は、鎌倉時代から戦国時代にいたるまで、この里見郷に居住し続けた里見氏一族がいたことを伝えています。またこの里見城跡については地元では古城(ふるじょう)と呼び、戦国時代の城郭として使われる以前からあったものといわれ、里見義俊がはじめに築いた城であると伝えています。山頂にはそのことを記した「里見古城の碑」があります。地元下里見の郷土史家里見水戸之介が中心となって明治十二年(一八七九)に建てたもので、里見氏の流れをうける陸軍少将小沢武雄が撰文していて、里見郷での先祖顕彰の様子を伝えています。
光明寺
国道を少し進んで中里見に入ると、光明寺というお寺の入口を示す案内があります。門標には天台宗の里見山阿弥陀院光明寺と書いてあります。東山道から榛名山へ向う旧道に沿って建つ寺で、鎌倉時代の里見義俊の供養のために阿弥陀院として創建以来、里見氏の菩提寺になったということで、洪水で流されて今はありませんが、かつては義俊の墓もあったと伝えられています。境内には昭和十五年(一九四〇)に安房延命寺(千葉県三芳村)をはじめ里見氏一族が建てた、里見氏瑩域と先祖の供養塔があります。里見氏の流れをうけているという説もある茶人の千利休もここで供養されています。
光明寺の東側には堀の内と呼ばれる土地が接していて、義俊が館を構えた所といわれています。「堀の内」というのは、平安時代の後半から鎌倉時代頃に、その土地を開発した武士が用水の管理などのために堀を四方に巡らして囲った屋敷地のことをいいます。だから「堀の内」なわけで、開発地経営の中心になる武士の屋敷地があったところが、現在でも「堀の内」という地名で呼ばれていることがよくあるのです。一般的に堀の内には、母屋のほかに門・遠侍・厩・櫓・倉・鷹屋などがあって、持仏堂や鎮
守もおかれていました。この持仏堂があることからのちに屋敷跡が菩提寺になることがあるようです。そしてここ中里見堀の内の一画には、いまも里見の姓を名乗る家が数軒あるそうです。
また光明寺境内には里見氏の歴史に関わるものとして、郷土史家里見水戸之介が全国の有志を募って明治二十三年(一八九〇)に建てた「新田公旧里碑」という顕彰碑もあります。これは鎌倉幕府を倒した南朝の功臣新田義貞が里見氏の出身であることを記したもので、地元ではよく知られた伝承です。かの有名な新田義貞は、里見義俊から五代目の忠義の子で里見小五郎といい、新田一族惣領の新田朝氏に子がないことから養子になり、新田小太郎義貞と改めたという話が伝えられているのです。真偽のほどは別として、下里見の里見城の東方には「小五郎谷戸(こごろうがいと)」という地名があって、里見小五郎の館があったといいます。また里見城の南方にある天神山の麓には小五郎が産湯をつかった「医者が清水」という湧水もあって、いずれも新田義貞伝説として伝えられています。
ゆかりの史跡
またここ中里見にも城跡があります。光明寺とは国道を挟んで反対側の丘陵上に、城山と呼ばれている雉郷城跡があります。山頂に五つの郭、中段にも三つの大きな郭があって、尾根上に直線的に並び、郭の間は堀切などで区切り、北に腰郭をつけて、北からの攻撃に備えています。里見城跡と同じ戦国時代の城跡で、天文年間に仁田山城(群馬県桐生市)主里見蔵人宗連が子の里見河内と逃れてきて、この城を築いて箕輪城の長野氏に属したといい、里見城や箕輪城の支城になった城跡です。
上里見は江戸時代中頃に神山宿という街道集落があって、わずか二十年ですが上里見藩の陣屋が置かれていました。この集落の南にある伊勢山は城(じょう)と呼ばれ、空堀や虎口などがあります。上山城跡とか上里見城跡などと称されますが、周囲との比高差は八メートルほどで、南北朝時代の里見支族里見兵庫頭の居館跡と考えられています。
そのほか里見郷周辺に視野を広げると、下里見に接する榛名町上大島には安養寺という寺があったといいます。これは新田義重の法号安養寺殿からとって名付けたとの説があります。また新田義貞も安養寺殿といいますが、いずれにしても里見氏とは関係深い寺と考えられている場所です。その旧境内地には、鎌倉時代の文永元年(一二六四)に建立された笠塔婆があり、正面には阿弥陀像が陽刻されています。この地の有力武士と思われる沙弥西仏という人が願主になっていますが、里見氏とつながる人物だったらおもしろいですね。 |
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第一章 里見氏のルーツをたどる。
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里見氏のふるさと紀行 |
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新田一族のこと |
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鎌倉御家人里見氏 |
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南北朝動乱のなかの里見氏 |
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鎌倉府と里見氏 |
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第二章へ…… |
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