命令が来る。安房から出よ。
国替の沙汰
1614年9月9日、里見忠義(さとみただよし)に土井利勝(としかつ)ら老中(ろうじゅう)からの使者がありました。安房(あわ)は江戸(えど)に近いので幕府のものとし、かわりに常陸(ひたち)国鹿島郡(かしまぐん)の隣にある行方郡(なめかたぐん)で9万石を渡すというのです。親しかった大久保家の失態に関係した処置でした。里見氏が安房から去らなければならないということです。もし館山城に立てこもるようならば、攻め殺すという厳しいものでした。


館山城、取り壊し。
館山城請取軍
館山城(たてやまじょう)受け取りの軍はすぐに集められました。上総国の佐貫城主・内藤政長(ないとうまさなが)と大多喜城主・本多忠朝(ほんだただとも)を中心に、近国の大名・旗本がおおぜいでやってきました。主人忠義(ただよし)は江戸で謹慎(きんしん)している状況でもあり、安房にいた家臣たちは大きな抵抗はできなかったようです。軍勢が江戸を出てから5日後の9月18日には、早くも館山城(たてやまじょう)は明け渡されて、幕府役人によって里見家の荷物が船で鹿島へ運びだされました。
幕府役人の指令書
(和田町石田氏蔵)
館山城の請取にきた幕府の役人嶋田次兵衛と本多藤左衛門が、里見家の荷物を船で鹿島郡へ運びだす様子を伝えている。


家臣の一部が小さな抵抗。
抵抗の伝承
一部の家臣のなかには安房(あわ)からの退去ということへの抵抗はあったのかもしれません。館山市出野尾(いでのお)に伝わる十三騎塚(じゅうさんきづか)伝説は、館山城の見える山の上で城明け渡しを無念に思った、13人の家臣が自殺したという、伝承です。また里見義豊(よしとよ)の子孫と伝えられる長田義直(よしなお)が9月9日に討死(うちじに)したという伝承などもありますが、定かではありません。
十三騎塚(館山市出野尾)
館山城請取のとき、館山城がみえる出野尾の山で十三人の家臣が自害したことを伝える伝説がある。


安房よさらば。
安房支配の終り
城が明け渡されると、またたくまに壊されていきました。9月の下旬までには建物はもちろん、堀(ほり)も埋められました。一方、忠義の妻子や家臣たちが鹿島(かしま)までいくと、幕府の使者から伝えられたのは、行き先は伯耆国(ほうきのくに・鳥取県)ということでした。9万石は没収で、鹿島3万石のかわりです。しかし、忠義に与えられたのは約束の3万石ではなく、わずか4000石ほど。こうして170年にわたる里見氏の安房支配におわりがやってきました。
館山城の堀から出た建物の廃材
(館山市立博物館蔵)
城山公園の駐車場の発掘で、館山城の堀跡と、そこに捨てられていた建物の廃材が出てきた。


徳川家の企てがその背景にあった。
改易の背景大坂の陣
この年徳川家康は豊臣家との決戦を決意して、館山城の内藤政長(ないとうまさなが)らに安房の押さえが命じられました。里見氏はいなくなったものの、安房に残った旧家臣(きゅうかしん)たちが大坂方に応じて動くことを警戒したのでしょう。里見家(さとみけ)が安房(あわ)国を追われることになったのは、まさに大坂の豊臣家を討つという計画がすすんでいた時期でした。江戸を留守にするにあたって、東京湾の入口にいる里見氏がじゃまだったのです。
向井将監の指令書
(館山市嶋田氏蔵)
幕府の役人中村弥右衛門と船手の向井将監が、館山から三十人の水夫を集めて、大坂の陣中へ兵糧米を輸送させた。


ほかにも理由が…。
改易の理由三箇条
里見氏改易(かいえき)の理由については、大久保忠隣(ただちか)への協力があったというこてでしたが、それとはべつに、あとふたつの理由があったとも伝えられています。館山城を補修し、道をつくり堀を掘るなどして城を厳重にしたこと。また、家臣を多く抱えすぎていることなどです。でもほんとうは海のまち・館山だったことが里見氏には災いしたのです。 長光寺の義康・忠義の供養塔(館山市上真倉)
館山城ちかくの長光寺に、城主義康と忠義を偲んで位牌形の供養塔がある。江戸時代のもの。


忠義、倉吉へ。
倉吉への旅
倉吉(くらよし)に向けて江戸を立った忠義一行は、駿府(すんぷ)で、正木時茂(ときしげ)とおちあい、ともに伯耆(ほうき)国へ行きました。屋敷は倉吉の神坂(かんざか)町と山里の堀村(鳥取県関金町)の二か所に与えられました。倉吉は打吹(うつぶき)城の城下町でした。忠義(ただよし)はその城の麓(ふもと)で屋敷を与えられたのです。
倉吉神坂屋敷跡付近
(鳥取県倉吉市)
倉吉に移った忠義は、はじめ打吹城下の神坂町に屋敷を与えられた。


いよいよ、里見氏の終わり。
里見家の落日
4000石とはいえ、倉吉の大岳院(だいがくいん)に土地を寄進、北野村(きたのむら・倉吉市)で天満宮を再建しています。同じ年、倉吉近郊にある北条郷(鳥取県北条町)の山田八幡宮の修理も行い、改易直後の忠義(ただよし)の心境が「不思議な改易…」と、修理の記録につづられています。
1617年、姫路(ひめじ)から鳥取藩主として移ってきた池田光政(いけだみつまさ)が、因幡(いなば)・伯耆(ほうき)の二か国を支配することになると、秋には郊外の田中村へ屋敷を移されて、4000石は召し上げられ、池田家の監視をうけることになりました。

伯耆北条八幡宮(鳥取県北条町)
倉吉郊外には、くしくも安房と同じ北条郷に八幡宮がある。

里見忠義の棟札
(伯耆北条八幡宮蔵)
忠義が最後の思いを込めて奉納した棟札。無念の思いと里見家再興の願いを込めた。


忠義、没。相続者なし。
里見家断絶
1622年6月、29歳の若さで忠義(ただよし)は病死しました。里見家には相続者(そうぞくしゃ)なしとされて断絶(だんぜつ)が言い渡されました。忠義は倉吉の常光寺(じょうこうじ)川原で荼毘(だび)に付されたと伝えられています。里見家は安房では代々、曹洞宗(そうとうしゅう)の寺を菩提寺(ぼたいじ)にしていたことから、墓は倉吉にある曹洞宗の大岳院(だいがくいん)に建てられました。
里見忠義の墓(倉吉市大岳院)
中央は忠義の子孫里見義孝の墓。その右側が家老堀江頼忠。左側が里見忠義の墓。その周囲には殉死した家臣の墓がならぶ。

大岳院(鳥取県倉吉市)
忠義の菩提をとむらう大岳院にはゆかりの品が残されている。曹洞宗。


淋しい倉吉でのたたずまい。
配流(はいる)の地倉吉
倉吉市(くらよしし)の市街地は日本海からわずか8キロ内陸にはいった場所にあります。里見忠義(ただよし)の墓は、大岳院で、子孫の里見義孝(よしたか)、家老の堀江頼忠(ほりえよりただ)、そして、殉死した家臣の墓に囲まれています。倉吉の周辺には安房守(あわのかみ)様と呼ばれるほこらや五輪塔(ごりんとう)が数ヶ所あります。もちろん里見忠義(ただよし)のことです。まさにこの地で里見家は滅びたのです。
六人塚(鳥取県関金町)
関金町堀の最後の屋敷跡には、忠義に殉死したという六人の家臣を祀る祠がある。

堀屋敷跡(鳥取県関金町)
最後の屋敷跡は田になっている。町内には忠義を祀る祠や五輪塔が数か所ある。


重臣もつらい日々でした。
正木大膳の流浪
正木大膳亮(だいぜんのすけ)時茂は1617年に倉吉から江戸へ呼び出されました。5年後に忠義が亡くなると、大膳はまるで忠義の代わりにされるように、11月に鳥取(とっとり)の池田家へと向っています。このような状況なので、大膳は主君・忠義の死に立ち合うことはありませんでした。
鳥取へ移った大膳は罪人としてお預けの身になりました。その後、改易から50年近くの時を経てから大膳の子孫達は解放されたのです。

大膳山跡(館山市上真倉)
二代目正木時茂はお預けの身となって死んだ。館山城内にはかつて大膳山があり、そのふもとに屋敷があったと伝えられていた。

第五章 天下人の時代

豊臣政権の登場
館山城下町の建設
徳川政権と里見氏
里見家家臣団と安房の支配
国替え、じつは改易
第六章へ……