里見氏の時代に安房に正木氏あり。
正木氏登場のなぞ
戦国時代の房総に里見氏とともに現われてきた有力な豪族(ごうぞく)に正木氏(まさきし)があります。正木氏は里見氏と同じように由緒のある武士が安房へ逃れてきたという話になっていましたが、じつは長い時間をかけて安房で力をつけてきたようです。
1508年頃には正木氏には安房国主の里見義通(さとみよしみち)につぐ二番目という地位についています。正木氏はこれ以後も決して里見氏の家臣(かしん)ではなく、里見氏とは同じ立場の戦国武将でした。

八幡神社(館山市正木)
国府に近い正木郷にあり、正木氏が祀ったという伝承がある。正木郷は正木氏の名字の地とされている。


正木氏の別名。
正木大膳
正木氏といえば正木大膳(まさきだいぜん)の名が里見氏の本のなかによく出てきます。じつは四人の正木大膳(まさきだいぜん)がいるのです。
ひとりめが正木通綱(みちつな)で、1533年に里見義豊(よしとよ)に殺されて内乱のきっかけになった人物です。その子、時茂(ときしげ)は大膳亮(だいぜんのすけ)と名乗りました。後に「槍の大膳」と呼ばれて勇猛(ゆうもう)な武将として名を知られた人です。三人目は時茂の子・正木憲時(のりとき)です。四人目は里見義康の弟で憲時の養子になった二代目の正木時茂(ときしげ)です。正木大膳(まさきだいぜん)が百年にわたって活躍することになるわけです。

長安寺(鴨川市富川)
曹洞宗のお寺で、小田喜城主の正木大膳亮時茂が開いた。時茂の娘で義頼の妻になった龍雲院殿の菩提寺でもある。正木氏ゆかりの寺。


それぞれに大活躍。
三つの正木氏
正木氏は内房(うちぼう)の海上(かいじょう)勢力を握っている正木氏(まさきし)と、外房(そとぼう)に勢力を広げた正木氏のふたつの家がありました。さらに、外房(そとぼう)の正木氏がふたつの家に別れるのです。
内房(うちぼう)に力をもった正木氏(まさきし)がこれらの正木氏の本家のようです。三浦半島(みうらはんとう)と内房を股(また)にかけて活動する海の豪族(ごうぞく)といえる存在です。その力は安房国の役人(やくにん)として正木氏がもっていた権限がみなもとだと言われています。

正木兵部大輔宛の書状
(鋸南町正木氏蔵)
里見義尭に抵抗した鋸南町周辺の正木兵部大輔が、北条氏康からもらった手紙。里見氏に対する北条方の備えの様子を伝えている。


東京湾沿いを支配しました。
内房正木氏
勝山城(かつやまじょう)のある佐久間(さくま・鋸南町)あたりから富津(ふっつ)にかけての海岸部を拠点にしていた内房正木氏(うちぼうまさきし)。1547年に保田郷(ほたごう)の地頭(じとう)として正木弥五郎(まさきやごろう)がいます。その後百首城(ひゃくしゅじょう・富津市竹岡)の正木淡路守(まさきあわじのかみ)や勝山城の正木安芸守(あきのかみ)が里見家のなかでは特別な家柄(いえがら)としての地位があったようです。その後、義康(よしやす)の弟たちがそれぞれの家の養子になって継ぐことになり、里見家の御一門衆(ごいちもんしゅう)になりました。
勝山城跡(鋸南町勝山)
内房正木氏の拠点の城のひとつ。金谷城や百首城とともに海上交通をおさえる要の城。


大多喜まで里見氏の力が。
小田喜正木氏
正木通綱の子、時茂(ときしげ)と時忠(ときただ)の兄弟は、それぞれ小田喜城(おだきじょう・大多喜町)と勝浦城(かつうらじょう・勝浦市)を本拠地として、それぞれが独自の国をつくりあげています。その本拠地の地名をとってふたつの正木家を呼び分け、小田喜正木氏(おだきまさきし)と勝浦正木氏(かつうらまさきし)と呼びます。
里見義尭・義弘父子には忠実だった小田喜正木氏ですが、里見義頼(よしより)と対立。1581年に義頼に攻められ、小田喜正木家はいったん滅ぼされてしまいました。これによって小田喜正木氏の国は、里見氏が支配できるようになりましたが、その地域では、正木氏の家名(かめい)による支配が必要とされました。義頼は子息を養子に送り込み、こうして小田喜正木家は里見氏の一門となりました。

小田喜城跡(大多喜町)
正木通綱の子時茂が、上総へ進出して本拠地にした城。時茂は夷隅から長狭・朝夷にかけて広大な領国をつくりあげた。小田喜正木氏の拠点。


海の利点を力に。
勝浦正木氏
時茂(ときしげ)の弟時忠(ときただ)は、勝浦城(かつうらじょう)周辺の狭い地域を支配しました。それは勝浦正木氏(かつうらまさきし)が水運の管理能力をもっていたということと、勝浦という湊が大きな経済力をもっていたことを示しています。
時忠(ときただ)は1576年になくなりました。その跡を継いだのは、時忠(ときただ)が里見氏との協力をやめたときに北条氏(ほうじょうし)のもとへ人質にだしていた頼忠(よりただ)でした。この頼忠が人質として伊豆にいたときの子に、後に徳川家康の側室になったお万の方がいました。その縁で里見家滅亡後(さとみけめつぼうご)もこの系統の正木一族(まさきいちぞく)は繁栄をつづけることができました。

勝浦城跡(勝浦市)
時茂の弟時忠が、上総へ進出して本拠地にした。支配領域は小さいが、勝浦の湊としての機能をいかして勢力を維持した。

本遠寺のお万の墓
(山梨県身延町)
正木時忠の子頼忠の娘。伊豆で育ち、徳川家康の側室になった。水戸家の祖徳川頼房と、紀州家の祖徳川頼宣の母。日蓮宗を信仰した。

第三章 里見氏の周辺

里見氏と足利氏
里見氏と正木氏
上杉氏と北条氏
第四章へ……