房州うちわの歴史
明治23年。那古に住む忍足信太郎さんが
割き竹の加工を内職として手がけたのが始まりでした。
明治30年。同じ町に住む岩城庄吉さんが本格的に割き竹の加工を始め、
大量の加工品を出荷するようになり、大正のはじめには「マド」と呼ばれ

うちわの骨作りまでの加工ができるようになりました。

房州うちわとして生産されるようになったのは
当時日本橋堀江町でうちわ問屋をしていた松根屋の主
横山寅吉さんが船形に移ってうちわ作りを始めた大正10年からです。

その後大正12年関東大震災でうちわ問屋のほとんどが
大火にみまわれたことが重なって、
町を上げてのうちわ作りが始められました。

那古、船形、富浦は古くからの漁師町で
男たちが漁に出た後、家に残された女の人や老人の内職として
うちわ作りは歓迎され昭和初期には
年700万本ものうちわが生産されるようになりました。

電化製品の普及などの変化から
実用品としてのうちわは使われなくなり
現在は約80万本になってしまいましたが、
手工芸品としての評価が『伝統民芸』として
今新しい魅力に置き換えられようとしています。
これが房州うちわです。
種類はほかにもあります。
 那古・船形は昔から漁業が栄えていたので留守番をしていた。お
かみさん達の手内職として代々伝えられ今では各工程の殆どが(ほと
んど)が女達の手でまかなわれています。団扇づくり最盛期の頃は、
団扇業者が30〜45軒、内職に携わる人は一千人ほどいたそうです。
その時は大きな仕事場所に集まって各工程を分担していましたが、
その後熟練した人々が老いてしまった事や団扇の受注が減ったので
それぞれ自宅で仕事をしたそうです。工程ごとに未完成団扇がまわ
りにまわって出来上がるまで一ヶ月以上かかるようになりました。

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