塩井戸
(写真は、塩井戸の言い伝えを記した掲示板)
塩井戸は「安房11井戸の一つ」として「安房誌」にも紹介されている。神余のほぼ中央を北東から西南に流れる巴川の中
流、畑中の川の中にあり、県の民族資料に指定されている。「安房誌」によると次のような内容が掲載されている。
「延暦24年(805)3月12日、神余村の金丸巨麻太宗光の家臣 杉浦吉之丞は武士をやめ農民となり、大同元年(806)5月
18日53歳で病没した。遺子はなく、妻の美和は夫の霊を弔いながら、一人住まいの貧しい生活を送っていたが、仁愛に富み、他人に
慈善を施すことを唯一の楽しみとしていたのである。
大同3年(808)11月24日旅の僧が訪れ、食物を乞うた。その時、あずきがゆがあったのでこれを与えると、僧は一口すすって「塩味がない
のはどうしたことですか。」とたずねた。美和は「家が貧乏で塩を買うお金がありません。」と答えた。僧はこれを聞いて大いに同情し、
美和を連れて小川のほとりに来て、杖を川底に立てて黙然していたが、その杖を美和に抜き取らせた。すると清水がわき
出て美和の額より高く噴出したので、清水をなめてみると塩を含んでいた。旅の僧はいつの間
にか去っていったのである。この僧は弘法大師であり、近隣の人々は再び来遊を迎えようとして、翌大同4年(809)11月24日来迎三尊阿弥陀
観音勢致至の仏像を安置し、無量山来迎寺という寺院を建てた。川を塩川とも称し、この寺に塩川を守護させた。」
この「安房誌」の資料は「金丸氏家系」から引用したものであり、この井戸水であずきがゆを作り供えるのを行事としてきたとも言われている。来迎寺は大正12年の関東大震災により倒壊して今はその面影もない。この塩井戸は弘法大師と結びつけた伝説であり、なおその付近一帯は地下に天然ガスを埋蔵している。井戸水は水質が悪く飲料水としては使用できない。