馬毛山人が天保の時代に書いた「安房国名所旧跡雑記」

 
「安房国名所旧跡雑記」に


 
「安房国中当国神社仏閣順拝ながら名所旧跡遊覧致候折柄見聞数々共荒僧書認め御覧に入れ申候  当房州は日本国東端の果てにして 至って海近く辺鄙の国 住昔新田家の枝流里見刑部大輔源義実朝臣嘉吉元年より国郡を領し代々相続の国王にて近隣の国々迄所領し凡百万 石領主在城し給いし物也 其の時本城の跡館山と申候 又御菩提所は初代二代は白浜郷に有之三代五代は犬掛大雲院に御廟所有四代の殿は 延命寺殿一翁正源大居士と申候て延命寺開基檀那也 其後十代迄後廟所亦其遺像も彼寺 に有里然るに寛永年中より当時大江戸の通路至て 宜敷国中土産運送辨利交易売買莫大の利潤益も広く萬端弁用乍居自由を為す事他国に勝れり 此故に国清くして俊秀才子出で家富み貴小児 に至る迄箸の心無く誠に目出度き聖代也く 市町に子供も踊里農夫は田野に従って是仰天の時に逢事を悦び俯而は地の理の豊作を取込み飽 まで喰い温にきて各々其業を励み勤む 依之国中神社の・・・・・・・(中略)鋸山常萬燈宇田の疱瘡神白間津に出来仏神余の塩 大師安布里の田植地蔵深名の文殊会・・・・・・・(中略)西の浜龍宮船大鯖鞨鼓待勝山神余幟待邦に稀成る大幟 平磯忽戸は地狂会松田海発大神楽磯村にも名代也・・・・・・・(後略)」

と記されている。馬毛山人とは、安房郡富山町の犬懸山大雲寺(廃寺)の住職で天保年間に寺子屋を開いた。そのときの習字の手本として前 記の文章を使用した。文章の中にあるように、神余の「塩大師」(塩井戸の項参照)と日吉神社の祭礼にたてられる大幟(おおのぼり)は天保の 時代にすでに有名であったことがわかる

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