大高尾の畳
『安房誌』に

  「義実(里見)の船は。柏崎の高崎といへる地に著船し。夫より陸路を経て。白浜に趣きしなり。 今神余村大田子いへる処に。義実日暮に及び。下賤の茅屋を借り。投宿せられし事ありと云い伝ふ。
此大田子にては蘆を 表にし。莚を裏にして。家居の敷物とす。義実止宿の時。此筵席を設け。賓座となす。義実興じ給い。珍敷筵席なり。自今此処に ては。外の畳を用ひず。末代迄之を畳として敷くべく由。仰せに依って。今日に至るまで。此地の農民畳を忌み厭ふと云へり。中世或人之 を見悪しとて畳を設けたるに。忽ち出火して悉く焼亡す。是より畳を用ふる者なしといふ。」

と記載されている。また、

  「治承4年9月朔日、頼朝公島崎より将に猟島に至らんとて、金丸郷大高尾里を過る。農夫六平なる者あり。頼朝暫く其家に憩ふ。筵 を設けんと欲するに畳なし、飯を煮んと欲するに釜なし。因って藁筵を座とし、粮米を炊ぐに鍋を用ふ。六平を嚮導となす。
此時頼朝自ら白羽の矢を地上に植て曰く、我此地を汝に賜うと。後此所を中間矢挿所といふ。」

ともあり、里見義実・源頼朝説ともいずれも伝説として今も語りつがれている。

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