金明様 (写真は、金明三社大明神と手洗い器)
  大高尾地区の小字揚橋に「金明様」といわれる小さな石宮がある。同地区の中間三治氏の祖母中間てこ女(明治29年12月、 87歳で永眠)が、中間家へ嫁に来て間もない頃(天保元年)、畑を耕していると鍬に当たる物があった。掘り出してみると、すり鉢を二つか ぶせた中から人骨が出てきた。なぜ畑に人骨があるのか不思議に思い、拝み師に見てもらうと、「源頼朝が、石橋山の 合戦に負けて房州へ流れ着いたとき、頼朝の家来の一人が片腕を負傷していた。片腕では頼朝のために尽くすことが出来ないので「この上 は、頼朝公に首をはねてもらいたい」と願い出て切腹をした。忠義な家来の霊は、伊豆半島の見えるところに埋めてくれと、頼んでいる。」 と語った。そこで、てこ女は平砂浦海岸を見おろし、遙か彼方に伊豆半島が見える場所(人骨の出たところより500メートルくらい離れた小高い丘)に手厚く葬った。手洗い器を供え、金明三社大明神を、墓地の隣に祭り(石宮)故人の霊を弔った。この話を伝え聞いた富崎・白浜方面の漁師は、墓地に花を捧げ、金明様に願をかけると水難を免れ、大漁間違いなしという縁起をかつぎ、連日のように金明様に参拝し、縁起酒を酌み交わしたのである。参拝人が多く、にぎわったので、金明様脇に茶店が建ったほどであった。明治初期、官憲の取り調べにより茶店は壊され、集会は禁じられた。現在では、参拝する人もなく墓地は荒れ果て、木立が生い茂っている。
  「金丸氏家系」によると、大意次のように掲載されている。

  「頼朝公が猟島に上陸後、字大高尾で休息した。その折りに、家来のひとり伊豆国の住人金子五郎源信明は、石橋山の合戦で総身に 13の刀傷を受け、剛勇な彼も頼朝の為に働けないので自刃した。頼朝は、金子五郎の首をはねてやり、その遺体を大高尾の鬼作小山の中央、伊豆の国を遠く望める地に埋めて、金明社と名付けた」

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