里見義実(さとみよしざね)
生没年不詳。房総里見氏の初代。鎌倉公方足利持氏の近臣刑部少輔家基の子とされるが、美濃里見家出身の可能性も指摘されている。左馬助あるいは民部少輔と称す。鎌倉公方足利成氏の側近として仕え、享徳の大乱で安房国の上杉派掃討を委ねられ、白浜周辺の上杉派を駆逐したとされる。白浜城・稲村城を拠点に、安房国の勢力を指揮下においたと思われる。室は武田信長の娘といい、子にはそれぞれ一字を与えた義通・実尭がいる。法号は杖珠院殿建室興公大居士とされ、白浜杖珠院を菩提寺にする。江戸時代の供養塔が建てられている。

里見成義(さとみしげよし)
生没年不詳。江戸時代に作成された軍記物語や系図では、義実の子として房総里見氏の二代目とされる。まだ実在が確認されないが、義実の子ではない可能性があり、恣意的に歴代に挿入されたとも考えられている。また義成とも記されるが、軍記物語やその影響をうけた系図類で多く使用されている。法号は慰月院殿大幢勝公大居士とされ、白浜青根原神社の地に墓があったと伝えられている。

里見義通(さとみよしみち)
生没年不詳。義実の子と考えられている。字は太郎。上総介(上野介か)・上野入道・民部少輔と称す。房州屋形・刺史と呼ばれ、安房国の国主の地位にあった。稲村城に居城する。また古河公方足利政氏に仕えて副帥と自称した。のち小弓公方足利義明に従い、永正十七年に関宿攻撃の指示を受けている。その後白浜城に隠居したと思われる。法号は天昭院商山正皓居士とされ、墓は犬掛の大雲院跡付近にある層塔だという。付近の上滝田にある竜喜寺はもと天笑院と号したという。

里見義豊(さとみよしとよ)
?〜天文三年(一五三四)。義通の子。字は太郎。高巌と号す。父義通健在の永正九年から、当主の権限を行使している。鎌倉の禅僧などとも交流し文武兼備と讃えられている。大永頃に義通が隠居して家督を継ぎ、稲村城を居城にした。北条氏と対立して鎌倉へも乱入した。勢力を伸ばしてきた叔父実尭と正木通綱を、天文二年に殺害。翌年実尭の子義尭に滅ぼされた。法号は高巌院殿長義居士とされ、墓は義通と並んである層塔だという。義豊の死によって天笑院が高巌院に改称されたという。年令は壮年に達していたと思われる。

里見実尭(さとみさねたか) 
?〜天文二年(一五三三)。義通の弟。義実の子と考えられている。左衛門佐・左衛門大夫入道と称する。兄義通の次将として北郡に討入り、妙本寺要害の軍代になる。金谷城を拠点に北郡に勢力をもったようである。水軍をおさえていたと思われ、岡本からの水軍出陣について義豊から相談をうけている。天文二年に甥義豊に殺害された。家督は継いでおらず、里見家の世代には入らない。法号を延命寺殿一翁正源居士とされ、本織延命寺に葬られた。

里見義尭(さとみよしたか)
永正四年(一五〇七)〜天正二年(一五七四)。実尭の子。字は権七郎という。永禄五年頃に入道して岱叟正五と号した。庶家ながら、天文三年に北条氏の支援を得て義豊を滅ぼし、嫡家から家督を奪った。天文六年に北条氏と手切れし、以後四十年におよぶ対立を続けた。上総へ進出してからは久留里城を本拠とし、三浦・下総へも進出して勇名をはせた。上杉謙信と組んで北条氏と攻防を繰り返すなか、上総支配を固めていった。戦国大名として里見氏を発展させ、六十八歳で没した。法号を東陽院殿岱叟正五居士とされ、延命寺に葬られた。

里見義弘(さとみよしひろ)
大永五年(一五二五)〜天正六年(一五七八)。義尭の子。字は太郎。はじめ義舜という。左馬頭と称す。佐貫城を居城にした。足利義明の娘や足利晴氏の娘を室にした。父義尭とともに三浦・下総を転戦、公方家の子息たちを保護して、北条氏と伍して戦った。上杉謙信が北条氏と同盟すると、武田信玄と結んで独自の外交で北条氏に対抗したが、天正五年に北条氏政と和睦した。しかし安房の義頼と対立し、義頼と梅王丸との継嗣問題を残したまま、晩年中風を煩って病死。五十四歳。法号を瑞龍院殿在天高存居士とされ、延命寺に葬られたという。

里見梅王丸(さとみうめおうまる)  
生没年不詳。義弘の子。母は足利晴氏の娘とされる。父とともに佐貫に在城した。義弘の死によって上総の遺領を相続し、義弘の鳳凰の家印も継承した。天正八年、義頼に佐貫城を落とされて岡本に幽閉された。剃髪させられて淳泰と称したといい、元和八年に没したとされている。

里見義頼(さとみよしより)
?〜天正十五年(一五八七)。義弘の子。字は太郎。はじめ義継という。左馬頭と称す。岡本城に居城して、義尭から安房の支配を任されたが、死後義弘と対立する。義弘の没後、安房分国を保持し、後継者の梅王丸を捕らえて西上総を領有、続けて東上総の正木憲時も滅ぼして上総の一円支配にも成功した。しかし上総へ移ることなく、安房で領国支配をおこなった。また北条氏との和平を継続したまま、佐竹・武田・上杉などの反北条勢力とも交渉を続け、各勢力と和平外交を展開した。天下人になった豊臣秀吉とも交渉をはじめている。法号は大勢院殿勝岩泰英居士とされ、青木光厳寺に葬られた。

里見義康(さとみよしやす) 
天正元年(一五七三)〜慶長八年(一六〇三)。義頼の子。字は太郎。左馬頭・安房守。従四位下侍従。岡本城から館山城に本城を移した。豊臣秀吉の小田原攻めに参加するも、上総領を没収されて安房一国の領主となる。以後秀吉の臣下として伏見に屋敷を構え、朝鮮出兵には九州名護屋まで出陣した。関が原合戦の際には徳川方として宇都宮へ出陣し、恩賞として鹿島三万石をうけた。十二万石の大名となるが、三十一歳で病死した。法号は龍潜院殿傑山芳英大居士とされ、真倉慈恩院に葬られた。

里見忠義(さとみただよし)  
文禄三年(一五九四)〜元和八年(一六二二)。義康の子。幼名は梅鶴丸。字は太郎。安房守。従四位下侍従。父義康の死により十歳で家督を相続。館山城を居城とし、一族・重臣の補佐で政務を行なった。将軍秀忠の御前で元服し、一字を請けて忠義と名乗った。幕閣大久保忠隣の孫娘を室に迎えたが、忠隣の失脚に連座して改易。伯耆国倉吉へ配流された。倉吉郊外の堀村で病死。二十九歳。法号は雲晴院殿心叟賢涼御大居士とされ、倉吉大岳院に葬られた。延命寺では高源院殿華山放牛大居士とおくり名された。高野山に正室が三十三回忌に建てた供養塔がある。