忠義の子供たち
 元和八年(一六二二)に里見忠義が死んで里見家が取り潰しになったのは、跡継ぎがいないというのが、その理由でした。ところがそれは正室に男子がいなかっただけで、側室の子はいたのだといわれています。忠義の正室の子としては女子二人がいたとされ、側室には三人の男子がいたといわれています。
 正室の女子は、姉が旗本久永飛騨守の妻になり、妹が旗本木下縫殿助延由の妻になったといいます。二人は慶長十六年(一六一一)に母が忠義のもとに嫁いでから、慶長十九年(一六一四)の改易離別となるまでに生まれたことになります。久永飛騨守は重章といって、寛永三年(一六二六)に生まれていますが、妻については中村氏の娘という人しか知られていません。その父重知が慶長四年(一五九九)生まれで、後妻に徳川家光の弟駿河大納言忠長の家老鳥居成次の養女を迎えているのですが、それが忠義の長女かもしれません。忠義が改易されたあと娘たちは養女にだされ、養女先から嫁いでいることでしょう。そうすると長女は、久永飛騨守重章の妻ではなく母ということではないでしょうか。ちなみに重章は慶安四年(一六五一)になって、長狭郡と朝夷郡で四千石の領地を与えられました。
 妹のほうは母の父大久保忠常の養女になったとされています。忠常はすでに慶長十六年に死亡していますが、その嫡子忠職、つまり母の弟がまだ十一歳だったので、忠常の養女のかたちをとったということかもしれません。そこから木下延由のもとへ嫁いだのでしょう。延由は慶長十五年生まれです。いずれにしても女子二人は母が実家の大久保家に帰ったのにあわせて、それぞれ養女にでるというかたちで忠義のもとを離れたのでした。そして養女先からそれぞれ旗本に嫁いだのです。高野山にある忠義と正室の供養塔にはさまれて、女子の供養塔が建っています。これは慶安五年(一六五二)に母より先になくなった妹の供養のために、母が建てたものです。
 男子のひとりは、慶長十九年(一六一四)生まれで利輝といいます。正保元年(一六四四)に三十一歳で没しました。安房で家臣の印東氏に育てられたと伝えられていて、三芳村延命寺に墓があります。その孫の義旭以降は代々が越前国鯖江藩(福井県鯖江市)主の間部氏に仕えました。藩祖の間部詮房は六代将軍家宣の側用人として大きな権力をふるった人です。宝永元年(一七〇四)に家宣が将軍の世継として江戸城に入ったときからの側近で、千五百石の旗本からスタートし、宝永七年に高崎藩五万石の大名になりました。子の詮言のとき鯖江藩五万石に移りますが、里見義旭は宝永二年から間部家に仕えているので、里見家は古参の家柄であり、家禄三百五十石で代々御中老という藩の重役を勤めていました。義旭以来代々江戸詰めでしたが、文久元年(一八六一)になって、義和のときに鯖江に移住していきました。
 次のひとりは、山下休蔵という人物の娘が産んだ子で、山下休三貞倶といいます。その側室は改易のとき妊娠していて、武州今戸(東京都台東区)の縁者のもとで生んだといいます。貞倶は寛永十一年(一六三四)に表坊主として徳川家光に仕えました。その子義永ときに里見姓にもどして、百五十俵の旗本として幕末まで代々徳川家に仕えていました。明治維新で徳川家が駿府に移ると、当主里見義和は徳川家達にしたがって駿府へ移住したものの、廃藩後は生活が成り立たなかったようで、明治になってから房州に来て、船形(館山市)の旧家臣正木家や多田良(富浦町)の神職代田家にしばらく滞在していたそうです。
 もうひとりは、広辺高次という人物の娘が上総で産んだ子で、広部忠三郎義次といいます。義次は広辺氏の関係で若狭国小浜(福井県小浜市)へ移住したといい、江戸時代中頃に里見姓にもどしたということです。

忠義の子孫伝承
 じつはこれらの他にも子供があったという話が残されています。そのひとつに、里見忠義が配流先の倉吉で産んだ子がいて、忠義が死んだのち海路土佐国へ渡ったという話があります。高知県須崎市浦ノ内の戸波浦という集落を中心に十一戸の里見姓の家があり、万治三年(一六六〇)に死んだ人物を若宮様として先祖祀りしています。この人が享年四十二歳と伝えられているので、配流時期の元和五年(一六一九)生まれとなります。墓は北方の倉吉の方角を向いているということです。
 また別の側室に千房太郎義郷という子がいて、寛永十五年(一六三八)に没したとされています。その子孫は田中と姓を替えて代々上総国周准郡泉村(君津市)に住んだということです。館山市内にも忠義の子孫の話が残されています。改易のとき高井村の安西治郎右衛門の娘が忠義の子を妊娠していたというもので、名を春光といい、その子は二歳のときに里見家の代官だった羽山喜右衛門が引き取って育て、のち羽山家を継いで寛文十一年(一六七一)に没しました。子孫は代々正木村に住んだといいます。春光の妻となった羽山喜右衛門の孫娘妙白の墓が今も残されています。

先祖回顧
 忠義の子孫たちは、江戸時代も中期を過ぎた頃になると、里見家ゆかりの寺院や旧家臣のもとを訪ね、あるいは遠く忠義配流の地倉吉までおもむいて、先祖の足跡をたどり、系図を求め、資料や伝承を集めてまわるようになります。その頃は家譜の編纂が盛んになってきた頃でもありました。
 まず鯖江藩の里見義孝が精力的にゆかりの地を回りはじめました。間部家に仕えた義旭の子で、里見義尭と同じ「権七郎」と名乗っています。元禄六年(一六九三)に生まれ、宝暦九年(一七五九)に六十七歳で没しました。杖珠院に墓参し、延命寺に先祖代々の位牌を納め、また倉吉の大岳院にも忠義をはじめ家老の堀江頼忠そして殉死した家臣の位牌を納めています。延享三年(一七四六)には義頼の墓がある青木(富浦町)の光巌寺を訪ねて義頼の肖像画の修理もしました。
 子の義徳も父とともに先祖の墓へ参り、また里見家の記録を収集しています。また大岳院にあるもっとも大きな墓は、義徳が建てた父義孝の墓だということです。
 次の義豪も倉吉と安房を訪れています。文化十二年(一八一五)には祖父義孝の遺髪を延命寺に納めて、ここにも義孝の墓が建てられました。文政九年(一八二六)にも安房を訪れていて、旧家臣の田山家や高橋家を訪ねて先祖義康の古文書を見、また高橋家には里見家でつかう菊桐紋の提灯を贈り、延命寺への墓参の名代を依頼するなど、先祖の地の人々との交流を深めていきました。倉吉にも子の義嗣とともに文政十一年に訪れ、里見忠義にまつわる話を大岳院の住職に記録してもらったほか、記念に忠義ゆかりの槍を譲られています。
 義嗣の子義和も安房を訪れ、明治六年(一八七三)に延命寺を墓参したときには、関が原合戦のときに徳川秀忠から里見義康に宛てた書状を譲られています。この鯖江の里見家では代々が先祖の墓参と事績調査を続けていたようです。
 また旗本になった里見家でも、弘化から嘉永頃に大御番衆の里見啓次郎義比が家臣を杖珠院に遣わして、所蔵の系図を写しています。この義比は竹林義比と名乗ることがあります。安房里見家の先祖が新田荘(群馬県)の竹林を所領にした頃に竹林氏を称したことを意識しているもので、先祖に対する意識を強くもっていたことがわかります。

第六章 そして里見氏はいなくなった

その後の里見氏
里見氏以後の安房と家臣たち
里見氏顕彰と研究の歴史