織田信長の関東進出
 天正十年(一五八二)三月に甲斐の武田勝頼が、織田信長の部将滝川一益の攻撃をうけて滅亡しました。このときの武田氏の領地は、甲斐・信濃・駿河と西上野に及んでいましたが、三月二十九日に西上野は信長の命によって滝川一益に与えられました。そして一益が関東の武将たちと信長との取次役となって、信長政権の関東への進出がはじまるのです。
 信長は天正年間のはじめ頃から関東や奥羽の武将たちと交渉をもつようになっていました。常陸の佐竹義重やその客将になっていた太田資正・梶原政景父子など反北条氏勢力は、北条氏の背後で天下を目指しはじめた信長と天正四年に結びつきました。下野の小山秀綱も同様で、里見氏の動向はわかりませんが、里見義弘も反北条氏の立場で同じ動きをしていたかもしれません。
 一益は厩橋城(群馬県前橋市)を拠点に東上野や常陸の武将たちを傘下にいれていきました。一益の支配下にはいった倉賀野城(群馬県高崎市)の倉賀野家吉は、上杉家のもとで東関東の武将たちとの交渉役をしていたことから、四月六日には上総国庁南(長南町)の武田豊信に織田方への帰属を勧める手紙を出しています。きっと里見氏はじめ房総の武将たちにも同様の勧誘をしていたのではないでしょうか。四月十三日に梶原政景から義頼に宛てて、世の中がどのように変化しても変わらぬ付き合いをするつもりだという手紙を出しているのも、勧誘の一環かもしれません。
 しかし信長が六月二日に本能寺で死ぬと、北条氏直は滝川一益を関東から追い出しにかかりました。一益は六月十九日には関東を追われてしまいます。氏直は一益を追って信濃国佐久郡へ入り、さらに甲斐にまで進出していきました。しかし甲斐には駿河から徳川家康も進出してきていて、両者の取り合いとなりました。両軍は八月から十月まで対陣をつづけましたが、十月二十七日に和睦して北条と徳川の同盟がむすばれました。

豊臣政権と関東
 天下人信長がいなくなり、北条氏直が徳川家康との同盟を結んだことで、北関東の反北条氏勢力は頼るべき存在を失いましたが、翌年信長の後継者として羽柴秀吉がその立場を固めると、秀吉に接近していきました。そして天正十二年(一五八四)の小牧・長久手(愛知県小牧市・長久手町)の合戦で秀吉と家康が講和し、しかも天正十四年に家康が上洛して秀吉に服属することになると、北条氏が孤立に追い込まれてしまいました。天正十五年、秀吉は北条氏直が佐竹
・宇都宮・結城などの北関東の反北条氏勢力に合戦を仕掛けるようなことがあれば、徳川家康と上杉景勝がその討伐にいくよう命じたのです。
 天正十三年(一五八五)七月、秀吉が関白に昇進して、豊臣秀吉と名乗り、織田信長のあとを継いで天下人になりました。この時期秀吉は全国の大名・武将に対して惣無事令という法令を出しています。全国を対象にして武力での紛争解決の禁止と、領地の境目は豊臣家で決定するという内容でした。これに従わなければ豊臣家が軍事力を動員して鎮圧するというものです。天正十五年の北条氏直に対する牽制もこの法令に基づくものなのでしょう。
 里見義頼はすぐにこの惣無事令に従う意志を示しました。十月頃に秀吉のもとへ使者をつかわし、太刀一腰と黄金三十両、縮三十端を進上したのです。義頼が秀吉に服属した時期がこのときか、これより以前かはわかりませんが、以後は秀吉の全国政権の指揮下にはいったのでした。天正十五年(一五八七)に義頼の跡を継いでいた里見義康も、翌十六年に太刀一腰と黄金十両を進上してかわらぬ服属を誓いました。

秀吉による領土確認
 そしてこの十六年八月に北条氏が秀吉の上洛要求に応じて、当主氏直の叔父北条氏規を上洛させて秀吉に従う意志を示しました。完全に服従したわけではありませんが、これによって秀吉には里見氏の領土と北条氏の領土の境目の確定作業をおこないました。十一月一日に秀吉が義康に宛てた手紙に、北条氏との上総での境目を決定するにあたり、里見氏が領有する分は望みどおりに認めることを約束しています。
 この頃の里見氏の領地は、安房一国と上総の南半分でしたが、その境は城で確認される北辺が東京湾沿いの佐貫城(富津市)、小糸川中流の小糸城(君津市)、小櫃川中流の久留里城(君津市)、夷隅川上流の小田喜城(大多喜町)、太平洋に面した一宮川河口の一宮城(一宮町)で、このラインの南側が里見氏領ということになりますが、そのうち夷隅川中流の万木城(夷隅町)、下流の鶴ケ城(岬町)など夷隅川中下流域が北条方の土岐頼春の領土、また一宮川中流の勝見城(睦沢町)、上流の長南城(長南町)、養老川中流の池和田城(市原市)を中心とした地域が、やはり北条方の長南武田豊信の領土でした。
 城だけでみると小糸川や小櫃川の下流域が不明ですが、次の点を加えて考えると里見氏の領土の範囲がみえてきます。つまり天正十年に支配領域になっていた小櫃川下流の横田(袖ケ浦市)で、その後に北条氏との攻防が考えられないことから里見氏の支配が続いていたと思われること、天正十六年に木更津市真里谷の妙泉寺に不入を認めていること、同じ年に養老川中流の池和田のやや上流にある高滝周辺(市原市)が里見氏家臣板倉昌察の支配になっていること、天正十八年に小櫃川河口の中島(木更津市)に塩年貢をかけていることなどから、里見氏の支配地は小糸川・小櫃川流域のほぼ全域、養老川流域の中上流、夷隅川の上流、一宮川の下流ということになります。つまり小櫃川の河口と一宮川の河口を結んだ線の南側で、長南武田氏と万木の土岐氏の領分を除いた範囲ということができます。

里見家担当増田長盛
 こうして豊臣家との交渉をもつようになった里見氏ですが、秀吉とのやりとりの取次 増田長盛  を担当したのが、秀吉の側近でのちに五奉行のひとりになった増田長盛でした。義頼が進物を上呈したときも、義康が上呈したときも取次をしたのは長盛でした。
 増田長盛ははじめ二百石で秀吉に仕え、天正十二年の小牧・長久手の合戦の戦功で二万石となり、翌年には豊臣家の重臣として所領に関する事務を取り扱うようになりました。そして天正十四年からは石田三成とともに東国方面の対策にあたるようになった人物です。この後の里見氏にとって、長盛は大きな支えとして存在していくことになるのです。
 里見氏にかぎらず関東の武将たちは、こうした秀吉の側近を取次にして秀吉と結びつきました。常陸の佐竹氏・下野の宇都宮氏は石田三成であり、下総の結城氏は浅野長政が取次でした。そしてそうした関係をもつことによって、豊臣政権内部の派閥抗争に関東の武将たちが巻き込まれていくということになったのです。
 東国に対する豊臣政権の政策は、徳川・北条・伊達などといった、地方で大きな力をもつ大名を生き残らせよ                 持部うとする、浅野長政や前田利家などのグループと、そうした大名を討伐して秀吉のもとにすべての権限を集めようとする、石田三成や増田長盛などのグループとに大きく二分されていました。地方分権派と中央集権派の対立です。これは関東対策を任された徳川家康と上杉景勝の競り合いとも結びつき、家康は分権派、景勝は集権派になりました。北条氏の圧迫をうける関東の武将たちは、もちろん取次をしてくれる集権派の石田・増田たちと結びつくことになりました。里見義康ももちろん増田長盛のグループということです。そしてこれは秀吉に簡単には屈しない北条氏や伊達氏に対して、強硬な態度をとるか宥和の態度で接するかの選択でもありました。

小田原合戦
 秀吉の決断は北条氏に対して強硬策でした。天正十七年(一五八九)十一月に宣戦を布告して、十二月には諸大名に決行を指示すると、翌天正十八年三月一日に京都を出陣しました。
 秀吉が北条氏を服従させるための交渉は、天正十六年以降も徳川家康を通じて行なわれていました。しかし早々に篭城の準備をすすめていた北条氏の頑強な姿勢からか、決戦の空気はあったのかもしれません。天正十七年七月、義康は秀吉直属の水軍の将九鬼嘉隆をとおして、関東に秀吉の出陣があれば義康も参陣して奮戦することを伝えています。十一月の秀吉の宣戦布告は里見義康のもとへももちろん通知されてきました。
 小田原攻城軍の本隊は三月二十九日に北条方の最前線に位置する山中城(静岡県三島市)を落とし、四月の初旬には小田原を包囲しました。その本隊とは別に、信州から上野に入った前田利家と上杉景勝の連合軍も三月末から攻撃を開始して、四月から五月にかけて上野・武蔵の北条方の城をつぎつぎと陥落させていきました。房総には小田原の本隊から別れた浅野長政・木村高重と家康の家臣本多忠勝・鳥居元忠・平岩親吉などの軍勢が攻めかかりました。四月二十二日に江戸城を接収した軍勢が房総に入ってきたのは五月になってからで、北条氏への攻撃がはじまってからひと月後のことでした。五月一日に野田荘(野田市)へ進み、さらに松戸−佐倉−臼井−土気−東金と進んで、下総・上総に拡がる千葉一族や酒井氏・武田氏・土岐氏などの北条方の城を落としていったのです。

義康の参陣
 秀吉軍への参陣の意志を示していた里見義康も、もちろん軍勢を動かしていました。四月七日には北条方の小金城(松戸市)主高城氏の支配地域になっている船橋郷(船橋市)まで出陣していたことがわかっています。浅野氏や徳川家の軍勢が来る前ですから、里見氏単独での軍事行動でしょう。十三日までには三浦半島へも出陣して、半島の先端にある野比村・長沢村(神奈川県横須賀市)などの村々に放火をして回っていました。さらに二十日には上総東金城(東金市)の酒井氏が支配する富田郷(成東町)にも軍勢を出して、下総・上総・三浦のそれぞれの方面で北条方へ攻撃を加えていました。三浦はもちろんですが、下総方面も北上総方面も水軍の機動力をいかした軍事行動だったかもしれません。
 小田原へ向かう義康は、もちろん三浦方面の軍を指揮していたことでしょう。そして遅くとも四月の下旬から五月上旬には文小田原の秀吉のもとへ参陣したと思われます。島津・大友・毛利などと同様に秀吉の旗本として石垣山の本陣に入りました。五月下旬の二十四日には下総の結城晴朝、二十七日になると佐竹義宣・宇都宮国綱など北関東の武将たちも続々と小田原へ集まってきました。このとき義康は小田原への遅参を秀吉にとがめられたといわれていますが、義康より遅かった佐竹氏たちに対するとがめがないのは不思議です。伊達政宗は六月五日になって到着しました。
 関東各地にある北条方の拠点は、秀吉の大軍によってつぎつぎと落とされていきました。六月になると鉢形(埼玉県寄居町)・八王子(八王子市)・韮山(静岡県韮山町)が落城してゆき、七月五日、里見氏と四十年にわたって戦いを繰り広げてきた北条氏は、ついに秀吉に小田原城を明け渡して滅びることになりました。そして関東に拡がる広大な北条氏の領国は徳川家康に与えられ、八月一日、家康は江戸城に入城したのです。ところが家康に与えられた領地のなかには上総全域が含まれていたのでした。それは正木時茂(二代目)や頼忠の所領もある里見義康の領国だったところでした。

惣無事令違反
 さて五月に房総攻略をすすめていた浅野長政たちの軍勢は、佐原から常陸の鹿島にまで進んでいました。常陸南部で北条方の江戸崎城(茨城県江戸崎町)や龍ケ崎城(茨城県龍ケ崎市)を攻撃しながら小田原の秀吉のもとへ向かっていた、佐竹義宣の勢力下にあった鹿島郡にまで踏み込んでいたのです。また上総でも北条方の長南城を落としたあと、さらに上総の里見氏の領分にまで踏み込んで、安房との国境まで迫ってきたのでした。こうした行動はさすがにやりすぎだったようで秀吉から怒られていますが、佐竹氏も里見氏も浅野長政と対立する石田三成・増田長盛方の武将だったことと関連しています。じつはもうこの五月中頃には、里見氏の領分のはずだった上総国が、秀吉に没収されるという情報が里見氏の家臣たちのもとに伝えられていたのでした。
 義康はこの一連の戦いのなかで大きな失策をおかしていました。里見氏の領国を越えた下総・北上総・三浦での戦いで、秀吉の軍令に背くと指摘される行為がいくつかあったのです。そのひとつが、秀吉が出すべき禁制を義康が自ら出してしまっていたことでした。それは禁制を出した地域を戦闘から保護することを約束する証文でしたが、独自に出したことで義康のおこなった戦闘がみな秀吉の命令をうけたものではなく、義康が勝手におこなった私闘とみなされてしまったのでした。私闘となると秀吉が命じていた惣無事令への明らかな違反となり、処罰の対象になってしまうのです。
 この小田原攻撃の最中には秀吉に反抗する北条氏を除いて、大名たちが禁制を出すということはなくなっていたようなのです。しかし下総の結城晴朝も義康と同じ様に北条方の小山氏領内で禁制を出していたのですが、結城氏には処分が行なわれませんでした。結城氏と秀吉との取次をしていたのは浅野長政でした。この里見氏の上総領没収は浅野長政の思惑があったようなのです。
 しかも三浦半島で義康が出した禁制には、里見氏の領内で保護されていた小弓公方足利氏の遺児頼淳のために、この機に乗じて鎌倉を回復しようという大義名分が示されていました。足利氏を鎌倉に戻そうと考えていたのです。しかしこれは秀吉の意志にはないものでした。天下人秀吉のもとで足利氏という古い権威は必要なものではなかったのです。これはまったく里見氏独自の目的でしかなく、もう大義名分として通用するものではなかったのでした。

上総召上げ
 結局、里見氏は浅野長政によって惣無事令違反を指摘される口実をつくっただけで、秀吉から上総領没収を命じられてしまったのでした。長政が安房国境まで軍勢を進めてきた五月にはほぼ没収が決まっていたのでしょう。六月には北条氏支配下の城ばかりでなく里見領の上総一宮が接収され、七月には真里谷・小糸が接収されているので、六月から七月にかけて里見氏の上総領は秀吉によってそうそうに没収されてしまったのです。そして八月に家康が江戸城に入ると、その家臣たちに上総の城が与えられました。里見氏にとって上総経営の重要な拠点だった佐貫城に内藤家長、久留里城に大須賀忠政、小田喜城に本多忠勝、勝浦城に植村泰忠が入って、軍事的に里見氏を牽制する態勢がつくられたのです。
 里見氏の所領没収はほんとうは上総だけですむものではなかったようでした。小田原を落とした秀吉は、つづく奥羽制圧のため七月二十六日に宇都宮に入りましたが、義康も宇都宮の秀吉のもとへ出向いていきました。それは安房国の支配を保障してもらうためだったと考えられています。そのために増田長盛や西門院から秀吉への取り成しがあったようでした。八月上旬に秀吉と面会し、上総の家臣を安房へ移すように命じられることで事実上安房国は安堵されたのでした。そして引き替えに佐竹氏や宇都宮氏と同様に人質を差し出すように命じられ、義康の御ふくろ様の上洛が要求されました。

安房引上げ
 義康は上総を引き上げた家臣たちに対して、すぐにも新たに所領を割り振らなければなりませんでした。小田喜(大多喜町)にいた逸見信時のようにもともと上総の出身で、安房へ移っても所領の配分が見込めないため、上総の本領が安堵されるように、西門院や増田長盛に秀吉への仲立ちを依頼した家臣もいました。しかし安房出身で上総に移っていた家臣はもちろん、もともと上総出身の家臣も含めて、上総に所領をもっていた家臣が大勢安房国内へ移ってくるわけですから、安房に所領をもっていた家臣や寺社が所領を削られることになるのは当然でした。
 急ぎ上洛をしなければならなかった義康は、九月上旬から中旬にかけて寺社を中心に当面の処置をしたようです。しかし所領の配分をめぐってトラブルをおこす家臣がいるなど、混乱もおきていたようでした。たとえば勝山城主の正木安芸守は小松寺の寺領に対して不法を働いたことから、小松寺からの苦情が義康のもとへ上がっていました。自分の所領のなかから小松寺(千倉町)に寺領が割り振られてしまったのか、安芸守が知行替えに納得しなかったのかもしれません。
 義康の上洛後、上総衆とよばれる上総の家臣たちに対して、所領配分の具体的な作業をしたのは、里見家ではなく秀吉の側近増田長盛でした。豊臣家による上総没収の後始末ということなのでしょう。九月の下旬に来国した長盛は、まず簡単な国内の検地を実施しました。それは実際に計測して土地の収穫量をはかるのではなく、指出といって面積や年貢額を村から報告させるやり方でした。その調査は長盛の指示のもとで里見家の家臣がおこなっており、吉浜村(鋸南町)にはのちに地方奉行になった板倉昌察が派遣されています。
 長盛はこの指出に基づいて、十月七日に自分の名前で所領の充行状を出しました。その充行状に書かれた所領はそれまでの貫高で表示したものではなく、秀吉が太閤検地ですすめていた石高による表示がなされていました。しかしこれは従来の貫高を一定の比率で石高に直しただけのもので、たてまえだけで全国の統一基準にあわせたということですが、今後石高を採用していくことの意思表示がされたということでもありました。全国ですすめられている太閤検地がいずれ安房国でも行なわれるという前触れだったわけです。長盛は十月二十一日には帰京していますが、義康は長盛の好意的な事後処理に満足していたようです。
 家臣や寺社への本格的な所領の割り振りは、翌年の七月からはじまりました。義康自身によって充行状がだされています。しかしもとより厳しい情況なわけで、義康も延命寺や惣持院(館山市)などの寺社に対しては、関白様の命令でこれまで寄進していた所領を替えなければならなくなったことを強調しています。吉浜村(鋸南町)の妙本寺や合戸村(富山町)の福満寺などは三分の一に減らされました。みながそのくらいに減らされたのかもしれません。また小田喜から移転してくる寺もあったようです。小田喜の観音寺は長狭郡に移転してきたらしく、池田村(鴨川市)の龍厳寺が所領について苦情を申し立てています。この観音寺はいま鴨川市横渚にある観音寺でしょうか。小田喜正木家とともに長狭へ移転してきたのでしょう。所領に関する事務は本名肥後守広永や御子神下野守弘幸などの家臣が担当していました。こうした苦情の処理もしながら、年内いっぱいをかけて、家臣や寺社への所領の充てがいが進められていきました。

義康、都へ上る
 義康がはじめて上洛をめざしたのは天正十八年(一五九〇)九月の中旬で、義康の妻子なども人質として一足先に上洛したようです。義康の妻は正確には伝わっていませんが、織田信長の姪だといわれています。嫡男の忠義が文禄三年(一五九四)の生まれですから、この時の子供というのは女子でもいたのでしょう。人質として上洛を要求されていた義康の御ふくろ様は、十一月末になっても上洛しなかったようです。この義康の母は正木時茂の娘でした。のちに里見家のなかで、御隠居様として大きな蔭の権力をふるったようです。
 義康は上洛中の翌天正十九年三月一日、朝廷から従四位下という位を賜り、侍従に任命されました。もちろん秀吉の推挙です。安房守の義康は、以後「安房侍従」と呼ばれるようになりました。またおそらくこの頃のことでしょう、秀吉からは羽柴の姓を与えられています。これは義康が秀吉と正式に主従の関係を結んだということで、この頃の武将たちはみな秀吉から羽柴や豊臣の姓を与えられていたのです。

朝鮮出兵
 義康は六月にいったん安房へ帰国して家臣たちの知行割りを終えると、またも追い立てられるように安房を旅立ちました。翌年の文禄元年(一五九二)正月に秀吉は朝鮮への出兵を実行することを決め、三月過ぎに出陣するよう全国の大名に命じました。江戸の徳川家康は二月二日に出立、義康も同じ頃に出発したようです。関東では一万石につき二百人の軍役が命じられたといわれ、常陸国一国と下野国の一部を支配する大名になった佐竹氏は、五千人の動員を要求されていました。それは家臣たちにとって年貢の三分の一の負担だったといいます。東国のほかの大名たちも同様に大きな負担が課せられたようです。
 義康もそうした負担を賄うために、前年から準備をしていたことでしょう。天正十九年に家臣への所領の充てがいが行なわれたのも、家臣への軍役負担の割り当てを確定するためでしょう。その所領の充てがいが行なわれるなかで、十月二十四日に大工の地引内匠助に所領を与え、また翌年正月二十二日になって皮作り職人へも所領が充てがわれています。これは武器などの軍需物資を緊急に揃えるために、鍛冶や鋳物・皮革・木工などの職人たちを統制して、作業に従事させる必要があったからではないでしょうか。これには城下への移住、集住もともなったかもしれません。こうして刀や甲冑・馬具なども急いで整えられていったことでしょう。
 上京した関東・東北の大名たちは二月三月は京都に滞在し、家康や伊達政宗・佐竹義宣・上杉景勝・南部信直などは、三月十七日に肥前国名護屋(佐賀県鎮西町)に向かいました。おそらく義康も同じ行動だったでしょう。名護屋では家康の指揮下に入って本営に在陣しています。義康はじめ関東の衆は朝鮮へは渡らず、そのまま年を越します。文禄二年三月には講和の動きがはじまり、五月には明国使節に対する悪口禁止という処置をした誓約書の提出に加わりました。八月に朝鮮半島撤退がはじまり、八月末に秀吉や家康が大阪へ帰るまで、義康は名護屋の本営にいたようです。全国の大名たちが集まった名護屋での一年半におよぶ滞陣は、とくに田舎の大名にとっては恥をかかないための気遣いの多い滞在だったようです。田舎の東国大名は神経と軍資金をすり減らしていたということで、義康はこの間の文禄元年四月十三日に、西門院から黄金一枚を借金しています。まだ京都から名護屋へ向かう途中でのことだったと思われますが、この一枚の黄金はいったい何につかわれたのでしょうか。

伏見での奉公
 十月の末に家康は江戸に帰りました。同じ頃義康も安房へ帰ったようです。しかしまた、あまり間をおかずに上洛していきました。翌年文禄三年(一五九四)四月には秀吉の御相伴衆として京都の前田利家の屋敷に御供をしています。また滞在中の五月には、西門院に対して房州実倉郷(館山市)で屋敷地と田地を寄進しています。この年秀吉は伏見城を築いて八月に移りますが、多くの大名たちもきそって城下に屋敷をつくりました。義康も屋敷をつくっています。慶長元年(一五九六)の大地震で城は倒壊してしまいますが、翌年に再建。その時の義康の屋敷は、掛川城(静岡県掛川市)主の山内一豊の屋敷に隣接して、宇治川へつながる堀に面した場所につくられていました。ここが上方での拠点になったわけです。
 その後帰国をしたかどうかはわかりませんが、文禄四年(一五九五)七月に秀吉の甥で関白の秀次が謀反の罪をきせられて切腹させられたあと、全国の大名たちが秀吉の子秀頼への忠誠を誓う血判の誓詞を提出しました。七月二十日、三十人の大名が署名する誓詞に、義康もそのひとりとして、織田信雄・徳川秀忠・上杉景勝らとともに血判署名をしています。
 慶長二年(一五九七)二月になると二度目の朝鮮出陣がありました。このときは徳川家康が京都に滞在したままだったことから、義康も名護屋まで向かわずに在京していたらしく、六月には、安房国で始まる予定の太閤検地について伏見から指示を出しています。増田長盛が領民の嘆願に耳を貸さないで検地を実施するように求めたものでした。

太閤検地と知行割り
 豊臣政権が全国を対象にすすめていた太閤検地が、安房国で行なわれたのは慶長二年(一五九七)秋のことでした。増田長盛が奉行として、安房での検地の総指揮をとることになっていたのです。長盛は篠原金助・北村権右衛門など十人の検地役人を伴ってやってきました。そして九月から十一月上旬にかけて、安房国内二二二か村で各村ごとに田・畑・屋敷の面積の計測を行い、それぞれの土地の生産力の基準を決めていったのです。
 里見氏が秀吉の家臣として軍役に応じなければならなくなると、里見氏の所領がどれだけの生産力をもつものであるかを確定する必要がでてきていたのです。そのため検地役人たちは、まず村ごとの境界線を取り決めました。村どうしで境界線が決められないときは、検地役人の指示で決まったようで、長狭郡の小原村と小町村(鴨川市)では、小さな集落をどちらの村に所属させるかについて決め、小原村担当の篠原金助と小町村担当の南彦右衛門が境界線の裁定を行なっています。
 その後検地役人たちは一筆ごとに土地の質と面積、耕作者を調べて帳面に仕立てる作業を行ないました。その帳面を検地帳といい、いまも十八か所の村に残されています。それをもとに一筆ごとに基準の収穫量を決めていきました。この検地で田ばかりでなく畑も屋敷も米の収穫量に換算して査定し、表示するようになりました。こうして土地の生産力を確定するとともに、年貢の負担者を決め、年貢額を算出するための基準をつくったのです。
 この結果、安房国は約九万千百石の生産力をもつ国とされました。この数字を石高といいます。これが里見氏が軍役を負担する際の基準となったのです。このうち家臣の所領として割当てた分が約四万七千三百石、里見氏の直接支配地が約四万三千八百石という結果になりました。家臣たちにとっても、これが里見氏から軍役の割当てを受けるときの基準になったのです。検地が終わると里見義康は、家臣たちに対して新たに計算された石高をもちいて、改めて知行地の割振りを行うことになり、全面的な知行替えを実施しました。十一月二十日付けで寺社や家臣たちに一斉に充行状を出したあと、翌年にかけて引き続き充行状を与えていっています。そしてこの検地は里見家の家臣たちに大きな影響を与えることになりました。
 たとえば、先祖代々安房郡江田村(館山市)に住んできた石井駿河守は、このとき新たに安房郡稲村(館山市)で所領と屋敷を与えられることになりました。これまでは先祖から伝来してきた所領に対して、里見家から積極的な介入をされることがなかった家臣たちが、こうして石高として土地の生産力が把握され、しかも所領が旧来とは別のところで渡されるようになってしまったのです。これによって、家臣たちの在地領主としての独立性が弱くなり、家臣としての里見家への従属がいちだんと進んでいくことになったのです。しかし里見氏にとっては逆に、これで安房の支配が強化されるということになりました。

第五章 天下人の時代

豊臣政権の登場
館山城下町の建設
徳川政権と里見氏
里見家家臣団と安房の支配
国替え、じつは改易
第六章へ……