義弘と足利家
 義弘は天文八年(一五三九)に鶴谷八幡宮の神前で十五歳のとき元服しました。義尭とは違い、元服のときには里見家を相続する立場になっていました。前年には国府台合戦で父を失った小弓公方足利義明の遺児たちが里見家を頼って身を寄せてきていました。父義尭は北条氏と対抗するなかで、公方足利氏と強く結びついていきましたが、義弘にとっては格別身近に足利氏が存在していたのです。
 義明の末子頼淳は里見氏の保護下で育ち、姉妹たちは鎌倉の太平寺・東慶寺の住持となりました。また北条氏康が立てた古河公方義氏に対立して、古河城を出た異母兄弟たち、藤氏・藤政・輝氏・家国なども保護下においていました。房総には鎌倉府の時代からつづく足利氏の家臣が多く、里見氏も足利氏の「御一家」に準じる家柄でもあり、足利氏にとっては避難所として格好の場所だったようなのです。
 永禄四年(一五六一)に上杉謙信が藤氏を公方として擁立すると、いったんは古河城へ戻しますが、翌年にはまた古河を追われて里見氏を頼ってきました。その藤氏が永禄九年(一五六六)に自害し、永禄十二年になって謙信が北条氏康と和睦してしまうと、北条方の義氏が正式な古河公方として承認されてしまいました。それでも義弘は弟の藤政を独自の公方に立て、謙信に代わって自分を藤政の副将軍に見立てて北条氏に対抗していこうとしました。元亀年間から天正二年(一五七四)に簗田氏が北条氏に関宿城を明け渡す頃までは、輝氏や家国なども義弘のもとから各地の反北条勢力に檄をとばしていたようです。
 さらに義弘は、永禄年間の終りか元亀年間の初め頃には藤政の姉妹を妻に迎え、あいだに梅王丸という子をもうけていました。それ以前にも、小弓公方義明の娘で太平寺に入っ
ていた青岳尼が、還俗して義弘の妻になっていたこともあります。義弘は足利氏から二度にわたって正室を迎えているわけで、足利氏とは特別強いつながりをもった人でした。

義弘の後継者問題
 義弘ははじめ義頼を後継者と定めて、安房岡本(富浦町)において安房地方の支配を任せていました。それを意識してか、はじめは義継と名付けていました。義頼は義弘の弟という説もありますが、側室に生まれた長子と考えてもよいようです。義頼は天正年間初めの義弘が健在なうちから、安房の支配者として独自に権力をふるいはじめていました。それは安房国内の寺社に対して義頼に仕えるものたちの駆け込みを禁止したり、房州海辺での海上の安全な通行を保障していることなどからわかります。しかしこうした行為の背景には義弘との対立があったのです。
 その対立とは義弘の後継者をめぐる問題でした。晩年になって義弘に梅王丸という嫡子が誕生したのです。しかも足利氏の血を引く子です。すでに後継者として認知されていた義頼にとって、これは自分の家督相続を脅かす事態になったのです。義弘も義頼の処遇には困ったことでしょう。それは元亀三年(一五七二)に義弘が行なった鶴谷八幡宮の造営の棟札によくあらわれています。
 里見氏の歴代当主は必ず北条郷にある鶴谷八幡宮の造営を行ないました。そのとき棟札が納められるのですが、そこには主催者である当主の名とともに、その横に後継者の名が記されるのが慣例でした。義弘はこの年、その棟札に義継と梅王丸のふたりの名を記載したのです。義弘は後継を決めかねたのか義頼を気遣ったのではないでしょうか。いづれにしても立場が危うくなった義頼にしてみれば、必然的に義弘と不和になるわけです。義弘が佐貫で死んだときには、安房からはだれも焼香にすらいかなかったのです。
 この対立には安房の家臣たちと上総の家臣たちの対立も加わっていたと考えられています。さらにその背後には、古河公方系の足利氏と小弓公方系の足利氏をかかえる里見氏ならではの問題もあったでしょう。佐貫にいる梅王丸とその母はもちろん、古河公方系の足利兄弟たちは上総の家臣たちに支えられ、小弓公方系は、頼淳や頼氏が石堂寺で育っているように、安房の家臣たちに支えられていたのかもしれません。青岳尼の伝承が安房にあるのもそうしたことと結びつくのでしょうか。

梅王丸の家督相続と義頼の対応
 天正六年(一五七八)五月二十日に義弘は没しました。大酒のために臓腑が破れたというのです。永禄十二年(一五六九)頃に中風にかかっていたようですから、慢性的なアルコール中毒で吐血したのでしょうか。相続者の決着をつけないままの義弘の死によって、安房は引き続いて義頼の支配領域のままとなりました。あるいは義頼が後継者の決定に従わなかったのかもしれません。梅王丸は西上総の所領を継承することしかできませんでした。里見氏の領国は支配が二分されてしまったのです。
 しかし梅王丸は義弘が里見家の家印として使用をはじめた、印文が「里見」とある鳳凰の印判を受け継ぎました。それは里見家の当主のしるしです。正式に義弘の後継者になったのは梅王丸でした。天正七年になると武蔵金沢(横浜市)で流通業を営む商人山口越後守に、西上総の湊への商売での自由な出入りとその際の非課税を保障したり、家臣への所領の宛行いや、寺社への寄進、不作地の召し上げなどをおこなっています。まだ元服前の梅王丸を支えたのは加藤信景などの義弘の近臣や、足利系の西上総の家臣たちだったでしょう。
 そして東上総に独自の支配領域をつくっていた小田喜の正木憲時も、里見氏が義尭・義弘を失ったのを機会に、新たな動きをはじめていました。梅王丸と義頼が対立しているこの時期に、里見氏から離れて自立をしようとしていたようなのです。三者が鼎立する状況になっていたのです。
 その均衡を先に崩したのは義頼でした。梅王丸が家印を使用して義弘の正当な継承者を主張しても、義頼は安房の主としての自覚はもちろん、正木憲時を里見家の家中と考えるほどに、自分こそが里見家の継承者だと意識していたように思えます。安房と上総の本来の里見領国を支配したい義頼は、天正八年(一五八〇)四月、久留里を含む小櫃谷(君津市)の制圧へと動きだしました。瞬く間に久留里・千本など小櫃谷にある梅王丸派の主要な城を落とし、さらに同じ四月のうちに上総西海岸の百首城や梅王丸派の本拠地佐貫城も落としてしまいました。そして梅王丸を捕らえて出家させ、わずかひと月のうちに西上総を手に入れてしまったのです。

憲時の乱
 次に行動をおこしたのは、急激な状況の展開に危機を感じた正木憲時でした。梅王丸と憲時は反義頼でつながっていたのかもしれません。憲時は前々から義頼に従わなくなっていたようで、義頼もまた前年からそのような憲時の征伐を考えていたようでした。
 義頼が佐貫へ出陣して事後処理をしている留守をねらい、六月末に義頼の膝元の岡本城にいた渋川相模守を利用して攻勢をかけようとしました。しかしその危険な動きを知らされた義頼は、七月五日に憲時退治に出陣し、ほどなく長狭地方の支配の要である金山城(鴨川市)を攻め落として、一気に正木憲時領の長狭郡を制圧してしまいました。七月十八日には清澄寺に進駐し、憲時方の葛ケ崎城(天津小湊町)を落として、翌十九日には興津(勝浦市)へと進攻していきました。八月には小田喜城に隣接する山間の板谷・紙敷・宇筒原・伊保田(大多喜町)の村々まで占領下においてしまいました。しかしさすがに小田喜に近くつながりが強いのか、これらの村々に対しては年貢の半分は小田喜に収めることが許可されています。
 海上拠点のひとつ浜荻要害を取り立てた義頼は憲時領の湊を押さえ、さらにこの年の十一月までには勝浦の正木頼忠、万喜(夷隅町)の土岐氏をはじめ夷隅地域の沿岸勢力を味方につけて海上を封鎖してしまいました。憲時の勢力はまたたくまに本拠地小田喜と、わずかに太平洋への窓口として上総一宮(一宮町)を残すばかりとなってしまったのです。
 こうした軍事攻勢をすすめているあいだにも、義頼は占領した西上総と長狭郡で戦後処理をおこなっていきました。義頼の指揮下に入った梅王丸や憲時の家臣たちを、義頼の家臣に取り込んで所領を安堵したり、社寺に対してはそれまで与えられていた権利を認めて、逃亡者をかくまわないように命じるなど、長狭や上総に対して一気に義頼の支配を及ぼしていきました。
 また義頼は義弘の外交関係をも巧みに利用しました。越後の上杉景勝、常陸の佐竹義重、甲斐の武田勝頼、そして小田原の北条氏政たちがかかえる対立関係には深入りせず、和平の維持に腐心していました。すべての外交関係を和平で維持する対策をとったのです。さらに領国を接する万喜の土岐氏や憲時と姻戚関係にある長南の武田氏からは人質をとり、憲時を外交的にも孤立させる方策をとりました。そして一年後の天正九年(一五八一)九月二十九日、小田喜城内で義頼への内通者がでて憲時は暗殺されてしまい、小田喜開城のはこびとなったのです。
 これによって義頼は東上総の正木領も継承することになりました。領内では小田喜正木氏の太平洋岸の重要な湊だった一宮を、百首城を拠点にする水軍の将正木淡路守に与え、憲時方だった正木宮内大輔にも恩賞として義頼から多くの土地が与えられています。おそらく最終段階で義頼に下って反乱鎮圧に大きな役割を果たしたのでしょう。その後小田喜近郊の憲時領を支配する役割をもったようです。こうして義頼が憲時の旧家臣を配下に取り込み、憲時が支配していた土地にも義頼の家臣をおくようになりました。
 また西畑郷と三俣郷(大多喜町)が、村どうしで野畠をめぐっておこした争論にも義頼が裁決を下すようになっています。こうして義頼が直接支配することで安房・上総の領国経営がおこなわれることになりました。しかし義頼が直接統治をすることには在地の抵抗もあったのでしょう。義頼は正木の家名を残すことにし、自分の次男時茂(二代目)に小田喜正木家の家督を相続させたのです。とはいえこれによって里見氏とは別個の支配領域だった正木領国に里見氏の完全な支配が及ぶことになったのです。

義頼の外交政策
 義頼は内乱中はもとより内乱を収めたあとも、対外的には抗争をせずに和平外交を継続しました。基本的には北条氏寄りのスタンスをとっていたようで、北条氏と戦闘を繰り返している常陸の太田資正・梶原政景父子や上野国の北条高定たちから援軍の要請があっても、なかなか耳を貸さず軍事的な支援を行なおうとはしませんでした。しかしきっぱりと支援を断るわけでもなく、佐竹氏や上杉氏などもふくめた反北条勢力とは決して対立することなく、外交的には巧みに立ち回っていたようです。
 一方北条氏に対しては軍事援助を行っていました。天正十年(一五八二)に北条氏直が武田家滅亡後の甲斐で徳川家康と対陣したときには、家康を支援する常陸の梶原政景から出馬の要請を受けているのですが、家臣の上野筑後守を甲斐の氏直軍へ派遣しています。また天正十二年に下野国藤岡(栃木県藤岡町)で常陸の太田資正が北条氏と対陣していたときにも、資正から援軍要請があったにもかかわらず北条軍を支援しているのです。
 しかしこのような義頼の平和外交が東京湾の安定をもたらす結果になり、領国の経済発展をみすえた政策に結びついていったのです。

第四章 関東のなかの房総

里見氏の上総進出
戦略のなかの里見氏
天正の内乱
流通と領国政策
第五章へ……