|
|
海の国安房の武士たち
里見氏が安房へ登場してくるのは、鎌倉公方と関東管領が対立して、関東地方でいち早く戦国時代が始まろうとし
ていた十五世紀の中頃でした。その頃には安房を代表する武士として、安西氏・神余氏・丸氏・東条氏がいて、この四氏が鎌倉時代からそれぞれが、安房国内の平群郡・安房郡・朝夷郡・長狭郡の四郡を分けあっていたというのが、これまで一般的にされていた理解でした。
ところが単純に地域を分けあっていたわけでもなく、安房の武士たちもこの四氏が代表格になっていたわけでもなかったようです。鎌倉時代から室町時代にかけて、東京湾を隔てた三浦半島に本拠をおいて東京湾の海上交通に深く関わった三浦一族は、房総半島に一族を広げて影響力の保持をはかっていたし、政権の中枢鎌倉にあって権力を握った北条・足利・上杉などの人々は、安房の武士たちを配下に従えてこの地域の支配にのりだしてきたりしていたのです。
それは安房が海の国だからでした。海上を船で移動することによって大量の物資が運ばれていた時代でした。海上交通の拠点となり、商品を売り捌くための地域の拠点ともなる湊や地域を、自分の勢力下に入れて利用することができれば、それは富をもたらしてくれたのです。安房は東京湾と太平洋にはさまれ、西からのヒト・モノ・文化を黒潮の流れが運んできてくれる土地でした。海上交通にとってとても重要な場所だったのです。
その安房で、鎌倉時代に海上交通を押さえようとしたのは安房の武士たちではなかったようです。そもそも鎌倉時代から室町時代にかけて、安房で成長してきた武士にどんな人々がいて、そして安房を勢力下におこうとした人々にはどんな権力者たちがいたのでしょうか。安房国を平群郡・安房郡・朝夷郡・長狭郡の四つの地域に分けてその変遷をおってみましょう。
平群郡
平群郡は現在の鋸南町、富山町、富浦町、三芳村の滝田地区・国府地区、館山市の船形地区・那古地区のことをいいます。安房国の政庁の国府がおかれていたのがこの郡で、三芳村の府中が推定地になっています。古代は平群郡と呼ばれましたが、平安時代の末には平北郡という呼びかたが現われ、鎌倉時代から戦国時代にかけては北郡という呼びかたが一般的におこなわれました。江
戸時代になると平郡と呼ばれています。
平群郡は、鎌倉時代から室町時代にかけては安西氏の勢力圏だったといわれてきました。安西氏の拠点は三芳村の池之内とされています。安西氏は、源頼朝が伊豆での挙兵に失敗して安房へ逃れてきたとき、安房国府の役人を代表する立場でした。ほかの役人たちを従えて頼朝に従っているので、安房の有力武士だったことは間違いないようです。
しかし安房へ逃れた頼朝を案内したのは三浦氏でした。三浦氏は平安時代の末には鋸南町から富山町にかけての海岸線に勢力圏を広げて、長狭郡の長狭氏と対立していたほどでした。鎌倉時代になると三浦氏は幕府の有力御家人となり、平群郡北部地域(鋸南町・富山町など)で三浦一族の大河戸氏が地頭になっています。三浦半島と安房西部を押さえて東京湾の海上交通路支配にのりだしていたのです。三浦氏が滅びると鎌倉幕府の役人二階堂氏に与えられ、二階堂氏が滅ぶと執権北条氏の惣領である得宗家の支配になったと考えられています。また多々良荘(富浦町)にも三浦一族の多々良氏が御家人としていましたが、鎌倉時代の終わり頃にはやはり北条一門の大仏氏の家人本間氏の所領になっています。その他平群郡の御家人として、国府周辺の安西氏と山下郷(三芳村)の山下氏がいたようです。つまり平群郡の大部分は時の権力者の手にわたったわけで、鎌倉時代は安西氏の勢力も平群郡では内陸南部に限られていたと考えたほうがよいようです。
南北朝時代になると、岩井郷(富山町)が鎌倉府の役人二階堂氏の所領として復活したほか、鶴岡八幡宮など鎌倉の寺社の所領になるなど、北条氏の所領が鎌倉府の直接支配下におかれたようです。
安房郡
安房郡は現在の那古・船形地区を除く館山市、三芳村の稲都地区、白浜町の長尾地区のことをいいます。戦国時代に山下郡と呼んでいたことがあります。安房郡は神余氏の勢力圏だったとされていたところです。 平安時代の末には金鞠(神余)氏・沼氏がいて、鎌倉時代の御家人には金摩利(神余)氏・安東氏がみられます。神余氏は安房郡南部の神余郷(館山市神余)の武士で、沼氏は沼之郷(館山市沼)、安東氏は安東郷(館山市安東)を本拠とする武士のようで、みな本拠地の地名を苗字にしています。安東は安房郡の東部の意味ですが安西はそれに対応する地名で安房郡の西部のことになりますから、安西氏の本拠地はそもそも安房郡にあったのでしょう。鏡ケ浦に面した館山市八幡にある鶴谷八幡宮を安西八幡と呼んでいたこともありました。また北条城(館山市)や船形城(館山市)に関して安西氏の伝承があって、海辺を押さえていることから、平群郡南部から安房郡北部にかけての鏡ケ浦の海上交通は安西氏が押さえていたことになります。
安西氏の拠点のひとつに三芳村池之内の平松城跡がありますが、ここは安房郡に属する地です。平安時代から南北朝時代にかけて、平群郡南部と安房郡北部にまたがってあった群房荘が安西氏の本拠と考えられて、安西氏は平群郡よりは安房郡を代表する武士だったようです。源頼朝夫人の北条政子の安産祈願のために、安房郡の代表者として洲崎明神へ参詣したこともありました。南北朝時代には安房郡長田保(館山市西長田)にあった鎌倉の円覚寺の所領を奪おうとする安西氏の姿もありました。四十年のちには朝夷郡の丸氏も長田保へ侵入してきていますし、室町時代には朝夷郡から真田氏が安東氏のいた安東郷に勢力を広げていました。
戦国時代に山下郡と呼ばれるようになったのは、それまで安房郡で勢力をもっていた神余氏を家臣だった山下氏が滅ぼして郡名をかえたのだという説があります。神余氏から山下氏へと有力者が移り変わったことも考えられますが、安西氏は安房郡の北部に勢力があり、神余氏は神余郷や神戸郷など安房郡南部の海辺に勢力をもって分立していたかもしれません。山下氏も平群郡南部から安房郡に勢力を伸ばしたと考えることもできるので、安房郡は他地域からの勢力の侵入もふくめて、もともと勢力が分立、消長する地域だったといえるようです。
朝夷郡
朝夷郡は現在の白浜町白浜地区、千倉町、丸山町、和田町、鴨川市の江見地区のことをいいます。戦国時代には丸郡と呼ばれていたこともありました。朝夷郡は丸氏の勢力圏とされ
ていたところです。
丸氏は平安時代から丸山川流域を開発して成長してきた武士で、戦国時代にいたっても丸山川流域に一族が広がって勢力をもっていました。源氏がはじめて東国で与えられた所領がこの丸御厨(丸山町)だったこともあって、源氏とのつながりは強く、鎌倉時代には御家人になりました。南北朝時代には鎌倉府がおこなった所領をめぐる訴訟の裁定を現地で執行する役割をもっていて、安房国内への影響力をもっていたようです。やがて勢力も拡大したらしく、鎌倉円覚寺の所領だった安房郡長田保を侵略しています。また三原川流域の三原郷(和田町)では室町時代になって三浦一族の真田氏が勢力を伸ばして、安房郡安東郷にも進出をはかっています。
しかし鎌倉時代には三浦氏の勢力が入り込んでいて、和田町には三浦一族の和田氏の伝説や朝平南郷(千倉町)にも三浦一族の朝比奈三郎が育ったという伝説などがあり、朝夷郡は三浦氏の所領だったといわれています。三浦氏が滅亡すると、その討滅に功績のあった足利氏の所領になりました。室町時代も鎌倉府の所領として足利家の執事高氏の一族高階氏が支配を行っていますが、のち朝平郷南方(千倉町・白浜町)が足利氏の外戚で鎌倉府の実力者上杉氏の所領になってからは、足利氏の支配地域は朝夷郡北部になったと考えられています。
丸氏や真田氏の勢力圏だった丸山川流域や三原川流域以外は、太平洋に面しているというのが朝夷郡の特徴です。太平洋の海上交通を握るうえでも、広域的には時の権力者たちの勢力圏にくみこまれていたようです。
長狭郡
長狭郡は現在の天津小湊町と江見地区を除いた鴨川市のことをいいます。東条氏の勢力圏だったとされていたところです。
東条氏は鎌倉時代の東条郷の武士で、御家人としても現われています。しかし頼朝の挙兵以前は長狭郡の郡名を苗字にした長狭氏が郡全域に勢力をもっていて、安房最大の武士団をでした。長狭氏は平家の家人だったため、源氏の家人として平群郡北部に進出していた三浦氏と対立して、頼朝の安房上陸のときに滅ぼされてしまいました。そのため長狭郡はいったん三浦氏の勢力下におかれていますが、三浦氏が滅亡すると北条氏一門の名越氏が東条郷に進出、東条氏は北条氏一門で連署の北条重時の家人となって成長してきたようです。北条氏一門の内紛で名越氏は失脚しますが、北条氏は影響力を残していたことでしょう。
そのほか白浜御厨(天津小湊町)には伊豆で海上活動をする狩野氏の一族で、北条得宗家の家人工藤氏の進出があり、鎌倉時代の長狭郡は在地の東条氏のほかに、海上交通の利権をあさる権力者たちも入り込んできていたようすがわかります。
室町時代になると、東条氏は在地の勢力として生き残ったのでしょうが、具体的な様子はまったくわかりません。北条氏が滅びたあとに影響力をもった外部の勢力もわかりませんが、内陸部の大山寺 領(鴨川市)には千葉氏の進出がみられます。
里見氏登場前夜の安房
十五世紀前半の室町時代、里見氏が登場する直前の安房国は、どのような勢力がしのぎを削る状況だったのでしょうか。これまで語られていたような、平群郡に安西氏、安房郡に安西氏、朝夷郡に丸氏、長狭郡に東条氏がいて、安房郡では山下氏が神余氏に取って代って戦国時代を迎えようとしていたという、そんな単純な状況ではなかったようなのです。
室町時代の安房国は鎌倉府が直接支配する地が多く、それを鎌倉の有力寺社や鎌倉公方の近臣に支配を任せるケースが多かったようです。安房国守護も結城氏・木戸氏など鎌倉公方の側近が就任していました。足利氏の影響力が直接及ぶ地域ということになりますが、関東管領の上杉氏が守護を兼ねることもあったようです。関東管領の上杉氏は鎌倉公方を補佐するとはいいながら、一族が越後・上野・武蔵・上総・伊豆で代々守護を勤めていて、東国では一大勢力になっていました。
なかでも山内上杉氏とよばれる上杉一族の初代上杉憲顕は、上杉氏で最初に関東管領になった人物で、越後国と上野国の守護になっていますが、越後と一緒に安房国の守護にもなったといわれています。その子憲方も安房国の守護になりますが、憲方以降この系統は安房守を代々襲名するようになりました。歴代が安房国の守護になったわけではないようですが、山内家は安房国に影響力を持つようになっていったのではないかと考えられています。朝夷郡で朝平郷南方を所領にしていた上杉氏とはこの山内家の上杉憲定のことで、所領になったのは応永三年(一三九六)以前のことです。
一三九〇年前後に鎌倉公方側近の木戸氏が守護だったとき、守護代を務めていたのは上杉憲方の家臣大喜光昌でした。彼は鎌倉の湊という役割をもつ港湾都市の武蔵国六浦(横浜市金沢区)で流通を支配していた人物でした。足利系の守護のもとに実務者として流通支配に長けた自派系の人物を送り込んだ上杉氏は、安房国内の経済活動拠点を押さえようとしたのでしょう。山内上杉氏というのは伊豆国の守護も兼ねていて、伊豆半島と大島を押さえていたことから、安房を勢力圏にすることは、西国と東国を結ぶ物資の流通に大きな影響力を持つことができるということにもなるわけです。
上杉派と足利派
公方足利氏の所領が多くある安房で、関東管領をもっとも多く勤める山内上杉氏が所領を獲得したり影響力を確保していこうとすれば、どうしても両者の対立に発展しかねません。それは鎌倉公方と関東管領の対立にもなってしまいます。当然安房国内でも足利派と上杉派の対立がおこることにもなると考えられます。
後年上杉氏の家臣として京都に滞在して、越後と京都との連絡役をつとめた神余昌綱・実綱・親綱という三代の親子がいたのですが、これは安房郡神余郷出身の神余氏ではないかといわれています。神余氏が上杉氏の家臣になっているのです。つまり安房国が上杉氏の影響を強く受けるようになると、上杉氏の家臣になった安房の武士たちがいたことを示しているわけ
です。
さらに白浜には上杉氏家臣の木曽氏が入り込んできていました。そしてそれに対抗するように、足利氏の有力家臣簗田氏などは、上杉氏の本拠地と考えられている白浜を中心にした朝夷郡南部を囲むように、真名倉郷・伊戸村(館山市)・白間戸村(千倉町)・久保郷(千倉町・丸山町)などの湊のある土地を所領としてもって、上杉氏を牽制するようなかたちになっていました。同じような状況が上総国でもあったとことでしょう。 |
|
|
 |
第二章 房総里見氏の誕生
|
|
 |
里見氏以前の安房 |
 |
里見氏、戦国の安房に現れる |
|
封印された里見氏の時代 |
|
里見家の政権交替劇 |
|
第三章へ…… |
|
|
 |
 |
 |
|